削りかけの木

木工所の午後の光

親父が何を考えているか、俺にはずっと分からなかった。

母が死んだのは、俺が七つの冬だった。肺炎だった。朝まで元気だったのに、夕方には救急車が来て、翌朝にはもういなかった。葬式の日、親父は一言も泣かなかった。焼香の煙のなかで、ただ黙って立っていた。親戚のおばさんが「泣いてやんなさいよ」と声をかけても、首を横に振るだけだった。

親父は信州の山奥で林業をしていた。朝の四時に起き、チェーンソーと弁当を担いで山に入る。帰ってくるのは日が暮れてからで、泥だらけの作業着のまま台所に立ち、味噌汁を温め直す音だけが家に響いた。「今日、学校で絵を描いた」と言っても、「そうか」としか返ってこない。通信簿を見せても、テーブルに置いたまま翌朝までめくられなかった。朝起きると通信簿は元の場所に戻されていたが、何か言葉があるわけでもなかった。

俺は自分が邪魔なのだと思っていた。母を亡くして、一人で生きていきたいのに、子供がいるから仕方なく飯を作っている。そう思えば、あの無口も、目を合わせない横顔も、全部つじつまが合った。

唯一覚えているのは、冬の夜中にふと目が覚めたとき、俺の布団が首元までしっかり掛け直されていたことだ。毎晩寝相が悪くて布団を蹴飛ばしていたのに、朝になると必ず元に戻っていた。あれが親父の仕業だと気づいたのは、山を下りてずいぶん経ってからだった。

中学を出ると同時に、俺は山を下りた。親戚の叔父が町の陶芸工房で働いていて、住み込みの弟子にしてくれた。親父に「出る」と言ったとき、台所で背中を向けたまま「分かった」とだけ言った。振り返りもしなかった。

あの背中を見て、やっぱりそうだと思った。引き止める気もない。俺が出ていくことに、何も感じていない。荷物をまとめて玄関を出るとき、振り返ったら台所の明かりは消えていた。

それから十八年になる。

叔父の工房で修業し、二十八で独立して自分の窯を持った。小さな個展を開くようになり、地元の飲食店に器を卸すようになった。年に一度、正月に山へ帰った。親父は相変わらず無口で、向かい合って雑煮を食べるだけの二時間だった。テレビもつけず、箸の音と時計の音だけが部屋を満たした。俺が帰るとき、玄関先で「体に気をつけろ」と言う。それだけ。毎年、同じ言葉。

三十五になった春、叔父から電話が来た。

「お前の親父、入院したぞ。腰をやったらしい。チェーンソーの反動で椎間板をやって、しばらく動けんそうだ」

俺は三日後に山に向かった。心配というより、義務感に近かった。親父が動けない間、誰かが家を見なければならない。

実家は、記憶よりずっと小さかった。

築四十年の平屋は板壁が風で鳴り、玄関の引き戸は錆びたレールの上で悲鳴をあげた。居間に入ると、囲炉裏の灰が冷えたまま残っていた。入院は突然だったのだろう。流しには洗いかけの茶碗が一つ、裏返しに伏せてあった。冷蔵庫を開けると、味噌と漬物と卵。男の一人暮らしの冷蔵庫だった。

親父の荷物をまとめようと、奥の納戸を開けた。毛布と防寒着の山。その奥に、作業小屋への裏口があった。

親父の作業小屋は、チェーンソーの替刃や工具が壁に吊るされた、油と木屑の匂いがする場所だった。子供の頃、「入るな」と言われて一度も足を踏み入れたことがなかった。危ないからだと思っていた。

薄暗い小屋の中に、棚があった。

作業台の横、壁に打ちつけられた粗末な板の棚。そこに、小さな木彫りの人形が並んでいた。

最初は何か分からなかった。手のひらに乗るほどの大きさで、どれも形が違う。一つ手に取ると、裏に数字が彫られていた。

「1998.11.23」

俺の、八歳の誕生日だった。

人形は、ランドセルを背負った子供の形をしていた。不器用な刀使いで、顔の造作は曖昧だったが、ランドセルの蓋の部分だけ妙に丁寧に彫り込まれていた。

隣の人形を取った。「1999.11.23」。九歳。今度はサッカーボールを抱えた子供だった。あの年、俺は少年団に入ったのだ。

その隣。「2000.11.23」。絵筆を持った子供。十歳の俺は写生大会で賞を取った。

棚には、二十八体の人形が並んでいた。

一体ずつ、手に取った。

十一歳のは走っている姿。マラソン大会に出た年だ。十二歳はリュックを背負っている。林間学校に行った。十三歳のは、スーツケースを持った子供。中学を出て山を下りた年。あのとき親父は「分かった」としか言わなかった。それでもこの人形は彫られていた。スーツケースの取っ手を握る右手だけ、やけに力が入った彫りになっていた。

十四歳からは、ろくろの前に座る少年になっていた。叔父の工房に入ったことを、親父は知っていた。十八歳のは、エプロンをつけた青年。あの年、初めて自分で釉薬を調合した。俺が叔父に電話でそう話したのを、叔父が親父に伝えていたのだろうか。

二十八歳の人形は、窯の前に立つ男だった。独立した年。地方紙に小さく載った記事を、親父はどこかで見たのだろうか。その人形だけ、胸のあたりに小さな火が彫り込まれていた。窯の炎だ、と気がついたとき、視界がにじんだ。

棚の端、二十八体目の隣に、削りかけの木片があった。

人の形になりかけている。頭と肩の輪郭だけが出来上がっていて、右手の先に何か丸いものが彫られかけている。日付はまだ刻まれていない。裏返すと、鉛筆で薄く「35」とだけ書いてあった。

三十五歳。今年の俺だ。

丸いものは、たぶん、器だった。俺が焼いた器を持つ自分の姿を、親父は彫ろうとしていたのだ。腰を壊す前日まで、この小屋で。

棚の裏側に、古いノートが挟まっていた。大学ノートの表紙に、母の丸い字で「拓のきろく」と書いてあった。

中を開くと、最初の十ページほどは母の日記だった。俺が生まれた日のこと。初めて寝返りをした日。初めて「まま」と言った日。最後のページは、俺が六歳の七五三で、母の字はそこで終わっていた。

次のページから、字が変わっていた。

親父の、角ばった、下手くそな字だった。

「11月23日。8さい。ランドセルがでかい。よくころぶ。でもまいにちはしっていく。」

「11月23日。10さい。絵でしょうをとった。先生がほめたと。見たかった。」

「11月23日。13。出ていった。さむい。」

三文字だけの行を、何度も読んだ。

「11月23日。拓はろくろが上手いらしい。兄貴がそう言っていた。なつこ、聞いたか。」

日記は毎年、俺の誕生日の日付だけだった。一年に一行。母に報告するように、俺のその年の姿を短い言葉で記していた。

最後のページ。今年の日付はまだなかった。代わりに、鉛筆の薄い下書きがあった。

「35。窯を持って7年。いい器を焼く男になった。なつこ、おまえに似てきた。」

俺は小屋の床に座り込んだ。木屑と油の匂いのなかで、声を出さずに泣いた。二十八年分の、親父の沈黙の重さが、一度に胸に落ちてきた。

病院の親父は、想像より小さかった。

ベッドの上で腰にコルセットを巻き、窓の外の山を見ていた。俺が入ると、少しだけ目を動かした。

「家、見てきた」と俺は言った。

「そうか」

「作業小屋も」

親父の喉が、かすかに動いた。

「……勝手に入ったのか」

「入った」

沈黙が降りた。窓の外で、鴉が一羽鳴いた。

俺はリュックから、風呂敷に包んだものを取り出した。先月焼き上がったばかりの湯呑みだった。青灰色の釉薬に、窯変で淡い緋色が走っている。自分でも気に入っていた一点ものだった。

「親父に渡そうと思って焼いた。……嘘だ。ほんとは個展に出すつもりだった。でも、今は親父に持っていてほしい」

親父はしばらく天井を見ていた。それから、ゆっくり右手を伸ばして、湯呑みを受け取った。ごつごつした、傷だらけの大きな手が、小さな器を包んだ。

「……重さが、ちょうどいいな」

それだけ言って、親父は湯呑みを胸の上に置いた。目を閉じた横顔が、少しだけ緩んでいた。

帰り道、俺は信州の山道を車で下りながら、削りかけの人形のことを考えていた。三十五体目は、俺が仕上げようと思った。親父の刀を借りて、自分の手で。

来年の誕生日には、親父と並んで写真を撮ろう。ノートの次のページに、俺が書く。母さんに報告するために。

「36。親父と飯を食った。味噌汁は相変わらずしょっぱい。でも、うまかった。」

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