
二月の夜中、消防署から帰る途中で、俺は一匹の犬を拾った。
下町の消防署は、俺の勤続七年の職場だ。四十八時間勤務、四十八時間休務。その繰り返しだ。夜中の救急車の音、火災現場の熱さ、そしてどうしても救えない人たちがいる。そういう仕事だ。
俺は三十四歳になっても、まだ独身だ。結婚しなかった、というより、できなかった。親には何度も催促されたが、俺は同期と飲むたびに「今のところは仕事で精一杯」と繰り返していた。本当は、家に帰る理由がなかったのだ。
アパートは消防署から徒歩十分のところにある。ワンルーム。賃貸。何もない部屋だった。帰ってから朝まで、テレビをつけるか、スマホを見るか、そのどちらかだった。
その夜、帰路の路地裏で、俺は犬を見つけた。
灰色の混じった毛並みで、首には古い皮の首輪がついていた。首輪には小さな錆びた鈴がぶら下がっていたが、音はしなかった。犬は動かずにそこに座っていた。目は開いていたが、虚ろだった。
逃げるような仕草はなかった。むしろ、座ったままこっちを見ている風だった。夜が深くて、周囲に誰もいなかった。
「おい」
声をかけても、犬は動かなかった。野良犬か捨て犬か。どちらにせよ、俺はそのまま歩き過ぎるべきだった。帰ってシャワーを浴びて、明日の準備をすべきだった。でも、俺は停まった。
犬に歩み寄った。
近づくと、犬の体は小刻みに震えていた。寒いのか、怖いのか、それとも何か別の理由か。首輪は本当に古かった。皮は剥げて、内側はくすんだ色をしていた。誰かに大事にされた首輪が、今は放置されている。そういう感じだった。
俺は蹲ってしゃがんだ。顔を近づけると、犬の目がわずかに動いた。
「拾ってやるか」
後のことは何も考えなかった。アパートに連れてきた。シャワーを浴びさせて、古いタオルに包んだ。犬はおとなしくされるがままだった。抵抗しなかった。逃げなかった。ただ、自分の体をタオルに委ねていた。
※
それから毎日、俺は犬の世話をするようになった。
名前をつけた。「ヒロ」。特に意味はなかった。ただ、何か名前が必要な気がしたから。
動物愛護センターに連絡するべき、と何度も思った。だが、結局いつも躊躇した。ヒロのマイクロチップを調べると、元の飼い主の情報が出てきたが、もう十年以上前の登録だった。連絡先の電話番号は存在しない番号になっていた。おそらく、引っ越したのか、もう連絡がつかないのか。そんなところだった。
ヒロはシニア犬だった。獣医に診てもらうと、推定十二歳だという。もう長くはない、というような目つきで医者は診断を言った。俺はそれ以上何も聞かなかった。
でも、毎日ヒロを見ていると、何かが変わるのが分かった。
最初は虚ろだった目が、少しずつ光を取り戻していった。俺が帰宅すると、玄関の近くに来るようになった。いつしか、尾を振るようになった。小さな振りだったが、それは確実だった。
朝、出勤する時。ヒロは部屋の奥で寝ていた。でも、鍵をかける直前にわずかに頭を上げる。その顔が、「行ってきてね」と言っているように見えた。帰宅時には、玄関を開ける音で飛び起きるのだろう。パタパタという足音が聞こえた。それがないと、俺は動けない気がした。
生活が変わった。帰宅を急ぐようになった。仕事が終わるのを待ちきれなくなった。それは、俺にはこれまでなかったことだった。
休日も変わった。以前は、二日間、ベッドから出ないことすらあった。今は、ヒロを散歩に連れて出ないと落ち着かない。下町の街並みをゆっくり歩く。ヒロは一歩一歩、丁寧に歩いた。時々、立ち止まって、においを嗅ぐ。その時、俺はその場で待った。何時間でも待った。
その散歩道で、何度か心が動く瞬間があった。
※
ある日、ヒロの首輪がきつくなっていることに気づいた。
医者の指摘で、太ったのだという。栄養管理が良くなったから、皮下脂肪が増えたのだそうだ。健康な証だ、と医者は言った。だが、古い首輪はきつすぎた。外すと、首の部分には薄い毛が抜けた跡が残っていた。長年きつい首輪をしていたのだろう。皮膚が変色して、その上に毛が生えていなかった。
新しい首輪を買った。赤い布地に、新しい鈴がついているやつだ。ペット用品店の店員に勧められたものだ。質は明らかに良かった。ヒロに付け直して、鏡で確認すると、ヒロはより元気に見えた。
だから、古い首輪を捨てるのに躊躇した。
なぜだか分からなかったが、俺はそれを机の上に置いた。毎日、目に入った。皮は褪せ、鈴は錆びている。それでも、その首輪には何かが詰まっている気がした。ヒロがそれを着けていた日々が、どんな人生だったのか。俺には分からないが、その重みが感じられた。
ある夜勤明けの朝、俺はその首輪をじっと見つめていた。
するとヒロが近づいてきて、それを鼻で突いた。まるで、「それ、俺のやつだ」と言っているみたいに。
その瞬間、何かが俺の中で崩れた。
ヒロがどこから来たのか、誰のもとにいたのか、そしてなぜ路地裏で一匹でいたのか。それは結局、知ることができない。だが、その首輪は、ヒロのこれまでの人生を表していた。良かったのかもしれないし、辛かったのかもしれない。でも、ヒロはそれを着けて生きてきた。そして今、新しい首輪をしている。
俺だって、同じだ。
七年間、消防署で同じことを繰り返している。何人も救えなかった。何度も失敗した。その一つ一つが、俺を蝕んでいた。古い首輪のように、ずっと俺の首を締めていた。
だが、ヒロのように、俺も新しい首輪をつけることができるんじゃないか。そんなことが思い当たった。
※
その翌週、俺は上司に相談した。
消防士を辞めるつもりはない。だが、配置転換を希望した。現場から、管理業務への転換だ。体力や反応速度が勝負の現場から、知識や経験を活かす部門へ。
上司は「突然だな」と言ったが、異議を唱えなかった。むしろ、「それが良いかもしれん」と言ってくれた。
新しい部門では、若い消防士たちの育成に携わることになった。彼らに、自分の経験を教える。失敗も、成功も。そうして、後進に託す。新しい人生だった。
古い首輪は、今も机の上に置いてある。
傷だらけで、錆びてて、何の役にも立たない。だが、それはヒロがどう生きてきたのかを示している。同じように、俺の古い日々も、無駄ではなかった。そこから何かを学んだ。何かを得た。
ヒロは今も、毎日を生きている。新しい首輪をつけて。赤い首輪は、毎日の太陽の中で光っている。
俺も新しい首輪をつけた。古い人生を引きずるのではなく、そこから学んで、前に進むという新しい首輪を。
朝、ヒロが玄関で俺を待っている。尾を振りながら。その一振りが、「今日も一緒に歩こう」と言っている気がする。
ある日、消防署の若い後輩が、うちに来た。
彼は現場での判断ミスで、患者を一人、失ってしまった。それが原因で、ずっと頭から離れないのだという。毎晩、眠れない。そう言った。俺は彼をソファに座らせて、ヒロを膝の上に乗せてやった。
ヒロが若い奴のことを信頼している様子を見ると、若い奴も少しずつ表情が和らいだ。ヒロをなでながら、彼は何かを考えているように見えた。
「俺も、同じようなことがありました。何人も救えなかった。その度に、自分が仕事をやめたくなるほどでした」と俺は言った。「でも、やめずにいてよかった。その失敗から、今の俺がいるから」と。
若い奴は何も言わなかった。ただ、ヒロをなでていた。何分も。何十分も。その時間が、彼に何かを与えていたんだと思う。
その後、彼は現場に戻った。そして今も、消防士をやっている。先月、彼が難しい救出に成功したと聞いた。俺はそれを聞いて、初めて少し、心が楽になった。
※
ヒロの毛並みは、今、ほとんど白くなっている。
推定十二歳だと言われたのは、もう二年前だ。ずっともたないと聞いていたのに、ヒロは毎日を生きている。それは、俺がいるから、という話ではなくて、ヒロ自身が生きたいと思っているから、だと思う。
朝日が射す部屋で、ヒロは横になっていることが多くなった。でも、目は開いている。窓の外を見ている。どこか遠くを見ているみたいに。
俺は毎朝、ヒロの横に座る。そして、古い首輪を手に取る。皮は、さらに褪せてきた。鈴は、もう音がしない。だが、それでいい。
「ヒロ。お疲れさまだな」
そう言って、ヒロの頭をなでる。ヒロは目をゆっくり閉じて、また開く。それが、返事なんだと思う。
※
俺は毎日、そのお誘いに応じる。古い首輪を見つめながら、新しい道を歩む。
下町の街角で、時々、子どもたちがヒロに近づいてくる。「ワンちゃん、おじいちゃん?」と聞く。俺は「そうだね」と言う。すると、その子たちはヒロをなでる。その手が、ヒロの白い毛をさらに白くしていく。
消防署の同期たちにも、ヒロのことを話した。多くは「へえ、随分違う人生だな」と笑った。でも、何人かは「いいな。俺もそういう人生、欲しいかも」と言った。その言葉は、心に残った。
古い首輪は、今も机の上に置いてある。それを見るたびに、ヒロとの日々が思い出される。そして、それ以上に、自分の人生が思い出される。
ヒロがあと何年生きるのか、それは分からない。でも、その時間の一分一秒が、俺にとっては何にも代え難いものになってしまった。
新しい首輪をした赤い鈴が、下町の街で鳴る。その音が聞こえる限り、俺たちはここにいる。古い首輪が示した人生から、一歩また一歩と、新しい道を歩んでいく。
それが、今の俺とヒロの、毎日だ。