
改札口に立っていると、時々、知らない人の人生が一瞬だけ見える。
荷物を抱えて走る親子。手を繋いで歩く老夫婦。泣きながらホームに立つ女性。
俺はそういう光景を毎日眺めながら、この温泉街の小さな駅で十五年間、改札を守ってきた。
駅の名前は湯沢。ホームは一本しかなく、待合室には木のベンチが三つ並んでいる。冬になると隙間風が入り込み、夏は蝉の声がホームに響く。観光客にとっては通過点に過ぎないこの駅が、俺にとっては人生そのものだった。
※
幼馴染の翔太と最後に言葉を交わしたのは、高校三年の秋だった。
翔太は成績が良かった。教師にも期待されていたし、東京の大学を目指していた。俺はというと、親父が体を壊して、家の旅館を手伝わなきゃならなくなった。進学は諦めた。
「お前、本気で言ってんのか」
翔太は教室で俺にそう言った。放課後の、誰もいない教室だった。窓の外では山が赤く染まっていた。
「お前はもっとやれるだろ。こんなとこで終わる奴じゃねえよ」
その言葉が、なぜか腹に立った。
「こんなとこ、ってなんだよ」
俺はそう言い返した。この町で生まれて、この町で育って、この町で生きていくと決めた俺に、「こんなとこ」は刺さった。翔太に悪気がなかったことくらい、わかっていた。でも、その一言が許せなかった。
翔太は何か言いかけて、やめた。唇が動いたのが見えたが、声にはならなかった。鞄を掴んで教室を出て行った。廊下を歩く足音が遠ざかって、やがて聞こえなくなった。それきりだった。
※
卒業式の日、翔太は俺のところに来なかった。俺も翔太のところに行かなかった。
翔太は東京の大学に進み、そのまま都内で就職したと人づてに聞いた。俺は親父の旅館を継ぐつもりだったが、旅館は数年で畳むことになり、駅員の職を得た。
温泉街の駅は小さい。一日に停まる電車の本数も少ない。改札は自動ではなく、俺が一人ひとりの切符を確認する。観光客が増える季節と、地元の人しかいない季節が交互にやってくる。
単調な毎日だった。でも俺は、この仕事が嫌いじゃなかった。朝一番の列車で通勤する高校生に「おはよう」と声をかける。温泉帰りの年配客が「いい湯だった」と笑う。そういう小さなやりとりが、俺の一日を作っていた。
※
翔太のことを思い出すのは、決まって秋だった。
山が赤く染まると、あの教室の窓が浮かんだ。翔太が言いかけて飲み込んだ言葉が、ずっと気になっていた。
連絡先は知っていた。翔太の実家はまだこの町にあったし、翔太の姉の美咲さんとは時々駅で会った。美咲さんは「翔太、元気にしてるよ」と教えてくれたが、俺はいつも「そうですか」としか返せなかった。
自分から連絡すればいい。そんなことはわかっていた。でも、十五年も経ってしまうと、たった一言が果てしなく遠い。何を言えばいいのか。「元気か」なのか「悪かった」なのか。どちらも違う気がして、結局、毎年秋が来ては過ぎていった。
※
十一月の終わり、忘れ物係の棚に小さな紙袋が届いた。
前日の最終列車の座席に置かれていたらしい。中を確認すると、折り紙の鶴が何十羽も入っていた。赤、青、黄、金、銀。どれも丁寧に折られていて、一羽一羽の翼がきちんと左右対称に開いていた。
息が止まった。
この折り方を、俺は知っている。
小学校の頃、翔太はいつも折り紙を折っていた。休み時間になると、机の上に色とりどりの紙を広げて、黙々と鶴を折った。翔太の鶴は特徴があった。普通の人は最後に翼を適当に広げるが、翔太は必ず爪の先で丁寧に形を整え、左右が完全に揃うまでやり直した。
紙袋の底に、メモが一枚入っていた。
「この袋を、改札の田中にお渡しいただけますか」
翔太の字だった。角ばった、几帳面な字。十五年経っても変わっていなかった。
※
俺はその日、仕事が終わってからも駅を離れられなかった。
待合室のベンチに座って、折り鶴を一羽ずつ手のひらに乗せた。どの鶴も完璧だった。翔太らしかった。
なぜ声をかけてくれなかったのか。改札に立っていたのは俺だ。翔太が切符を差し出せば、すぐにわかったはずだ。
でも、すぐに気づいた。翔太も俺と同じだったのだ。たった一言が、果てしなく遠かったのだ。不器用な人間が二人いると、間に横たわる沈黙はどこまでも深くなる。
※
三日後、美咲さんが駅にやって来た。
美咲さんの顔を見た瞬間、何かが胸の中で崩れた。美咲さんの目が赤かった。
「翔太ね、病気なの」
美咲さんは静かにそう言った。膵臓の癌が見つかって、もう手術はできない状態だと。東京の病院に入院していて、余命は長くないと医師に言われていると。
「あの日、最後に温泉に入りたいって言って、一人でこっちに来たの。駅であんたを見たって、嬉しそうに電話してきた」
俺は何も言えなかった。
「でも声はかけられなかったって。不器用だから、あの子は昔から」
美咲さんが封筒を差し出した。
「これ、翔太から。あんたに渡してくれって」
※
封筒の中には便箋が一枚だけ入っていた。
「健一へ。お前がまだあの駅にいてくれて、よかった」
それだけだった。
でも、その一行の下に、何度も書いては消した跡があった。紙が薄くなるほど消しゴムをかけた跡。何を書こうとしたのか、想像はついた。
俺は便箋を膝の上に置いて、天井を見上げた。待合室の蛍光灯がぼやけて滲んだ。何度も書いて消した翔太の姿が浮かんだ。病室のベッドの上で、鉛筆を握って、書いては消し、書いては消し。伝えたい言葉が山ほどあって、でも一行しか残せなかった。俺と同じだ。あいつも俺と同じだったのだ。
※
翌週、俺は東京の病院に向かった。
十五年ぶりに会う翔太は、驚くほど痩せていた。でも、俺を見たときの目は変わっていなかった。あの教室で俺を見ていたときと同じ、まっすぐな目だった。
「よう」
俺がそう言うと、翔太は少しだけ笑った。
「遅えよ」
「お前もな」
それだけで十分だった。十五年分の空白が、たった二言で埋まった。
俺たちはしばらく黙って窓の外を眺めた。東京の空は狭かったが、夕焼けの色だけはあの町と同じだった。病室には消毒液のにおいが漂っていたが、翔太の枕元には小さな折り紙の束が置いてあった。まだ折りかけの鶴が一羽、半分だけ形になっていた。
「健一」
翔太がぽつりと言った。
「あの時、お前に言いたかったこと、やっと言えるわ」
俺は黙って聞いた。
「お前がいてくれたから、俺は安心して遠くに行けた。あの町を守ってくれてるやつがいるって、それだけで俺は頑張れた」
翔太の声は小さかったが、震えてはいなかった。
「ありがとう。ずっと言いたかった」
俺はうつむいた。涙が膝に落ちた。「こんなとこ」と言った翔太が、ずっとこの町のことを想っていた。俺が守っていると思ってくれていた。
「こっちこそ」
それだけ絞り出すのが精一杯だった。
※
翔太が逝ったのは、年が明けてすぐのことだった。
葬儀の日、美咲さんが教えてくれた。翔太は入院中、毎日折り鶴を折っていたこと。千羽には届かなかったが、折った鶴はすべて俺に届けるつもりだったこと。
「あんたのこと、ずっと自慢してたよ。俺の幼馴染が関所を守ってるって」
美咲さんは泣きながら笑った。
関所か。翔太らしい言い方だと思った。
※
今も俺は、あの温泉街の駅で改札に立っている。
改札口の横の小さな棚に、翔太の折り鶴を一羽だけ置いた。金色の、翼がぴったり左右対称の鶴。
時々、観光客が「かわいい」と言って写真を撮る。由来を聞かれることもある。そういうとき、俺はただ「友達がくれたんです」と答える。
それだけで、十分伝わる気がしている。