
俺の母親は、俺が十二歳の時に死んだ。
ただの風邪で入院したはずだったのに。
一週間後には、もういなかった。
理由が分からないまま、世界だけが先に進んでいった。
俺だけが置いていかれた。
母さんがいなくなった家は、音がなくて、空気が重かった。
その穴をどう埋めたらいいのか、十二歳の俺には分からなかった。
親父も、きっと分からなかったのだと思う。
それでも親父は、毎日働いた。
忙しい中でも、俺のために働いてくれた。
たまに休みが取れたら、遊びにも連れて行ってくれた。
俺が反抗期で、ひどいことを言っても。
親父は、黙って受け止めるだけだった。
まるで、言い返したら壊れてしまうものがあるみたいに。
俺は知っていた。
母さんが死んだ直後、親父の手に、たくさんの包丁傷の跡ができていたことを。
あの傷を見た時、胸の奥が冷たくなった。
ああ、この人は、あの夜を越えるために、自分と戦っていたんだ。
俺が知らないところで、何度も何度も。
それでも俺の前では、父親でいようとしていたんだ。
親父は、あれほど好きだったゴルフをやめた。
いつの間にか、タバコもやめていた。
きっと、母さんがいない分まで、長く俺のそばにいようとしたんだと思う。
その思いが分かったところで、俺はうまく優しくなれなかった。
照れくさくて。
強がって。
子どもみたいに、意地を張って。
俺は、母さんがいなくなった悲しみを、親父にぶつけていた。
そして親父は、それを黙って受け止めた。
そんな親父が、俺の二十歳の誕生日の一ヶ月後に死んだ。
その誕生日、親父は入院していた。
病室の匂いは、昔の記憶を連れてくる。
消毒の匂いと、白いシーツと、夜の静けさ。
俺は、それが嫌だった。
俺の中で、母さんを失った日と重なるからだ。
親父は、ベッドの上で俺を呼んだ。
そして、ひとつの手紙を渡した。
黄ばんだ封筒だった。
封筒の口には、セロハンテープを剥がした跡がくっきり残っていた。
何度も開けようとして、何度もやめた。
そんな跡に見えた。
親父は、ぽつりと言った。
「……お前に、渡すもんがある」
俺は封筒を開けた。
中に入っていたのは、母さんの手紙だった。
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『パパになったたけしへ』
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俺は、息が止まった。
母さんの字だった。
もう二度と読めないはずの、母さんの言葉がそこにあった。
内容は、俺が生まれた時のことから。
中学に入学した頃までのことが書いてあった。
初めて泣いた日のこと。
寝返りを打った日のこと。
一緒に笑ったこと。
時々、心配になったこと。
叱った後で、眠る俺の顔を見ながら謝ったこと。
そういう、日々の小さな記録だった。
そして、最後にこう書いてあった。
生まれた子が俺で良かったって。
短い間だったけど楽しかったって。
感謝してるって。
でも、ごめんって。
だから、あなたの子どもには、あなたと同じ思いはさせないで頂戴って。
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俺は、泣きながら読み続けた。
文字が滲んで、行が歪んで、それでも目を離せなかった。
母さんが、俺の未来を見ているみたいで。
俺の人生が、母さんの中で途切れていなかったことが、たまらなくて。
読み終えた頃には、肩が震えていた。
その時、親父が言った。
「……すまんな」
謝っている声だった。
泣きながら読んでいる俺に。
そして、今まで黙っていたことに。
俺は思った。
何を謝ることがあるんだよ、と。
母さんが死んでから。
親父は忙しい中、俺のために働いてくれた。
俺を育ててくれた。
俺が荒れても、見捨てなかった。
俺は、本当は分かっていた。
親父が、どれだけ踏ん張ってきたか。
どれだけ自分を削って、父親でいようとしたか。
それなのに俺は、ありがとうと言えなかった。
親父に、弱音を吐かせてやれなかった。
甘える代わりに、突き放してしまった。
だから俺は、心の中で言った。
こっちこそ、ごめん。
ダメな息子で、ごめん。
もっと優しくできたのに。
もっと話せたのに。
もっと、一緒に笑えたのに。
親父は、俺を見て、少しだけ笑った。
その笑い方が、母さんに似ている気がして、また泣けた。
俺は普通の人より早く両親を亡くしたのかもしれない。
でも、他の誰にも負けないくらい幸せだ。
家族三人で過ごした時間は、何よりの宝物だ。
短くても、確かにあった。
母さんがくれた言葉。
親父が守ってくれた日々。
それが、今の俺を立たせている。
父さん。
母さん。
ありがとう。
ほんとに、ありがとう。