十七年後のボタン

薬局の午後の光

木曜日の午後三時になると、私は無意識にカウンターの向こう側に目をやる癖がついていた。

商店街のはずれにある小さな調剤薬局。私がここで働き始めて五年になる。地元の常連さんが多い静かな店で、特別なことなど何もない日々だった。

あの人が来るようになるまでは。

最初は気づかなかった。処方箋を受け取り、棚から薬を揃え、用法の説明をして、袋に入れて渡す。何百回と繰り返してきた同じ流れ。だけど三回目に来たとき、彼が「ありがとうございます」と言って軽く頭を下げた、その横顔を見て、私の指先が止まった。

知っている顔だった。

十七年前の秋。高校二年のとき、私たちは隣の席だった。

文化祭の準備期間で、教室じゅうが紙テープや模造紙で溢れていた。私は脚立の上に立って天井に輪飾りを留めていた。腕を伸ばした拍子に、カーディガンの袖口が画鋲に引っかかった。ぱちん、と小さな音がして、ボタンがひとつ床に転がった。

拾ったのは、隣の席の宮本くんだった。

「あ、落ちたよ」

彼はそう言って、薄いベージュのボタンを掌に載せて差し出した。でも私は脚立の上にいて、両手がふさがっていた。

「ごめん、今ちょっと持てない。あとで返して」

「わかった」

それだけの会話だった。教室は賑やかで、誰も気にしていなかった。

なのに宮本くんは、そのボタンを返さなかった。文化祭が終わっても、期末試験の前も、冬休みが明けても。私も催促できなかった。たかがボタンひとつで話しかけるのは、なんだか大げさな気がした。本当は、そうじゃない理由があったのだけれど。

ボタンを返してもらう口実があれば話しかけられる。そう思いながら、結局その口実を一度も使えないまま、三年生のクラス替えで私たちは別々になり、卒業式の日も言葉を交わすことはなかった。

たったボタンひとつのこと。それなのに私はずっと覚えていた。カーディガンは袖口にぽつんと穴が空いたまま、実家のクローゼットに今もかかっている。

毎週木曜、午後三時前後。宮本くん——処方箋に印字された名前は「宮本晴彦」。もう「くん」で呼ぶ年齢でもない。彼は母親の薬を取りに来ていた。

高血圧と軽い不整脈の処方。分量から察するに、日常生活には支障のない程度だった。だけど毎週欠かさず来るということは、きちんと面倒を見ているのだろうと思った。

彼の手はいつも少し荒れていた。スーツではなく作業着のことが多かった。目元にはうっすらと疲れの影があったけれど、薬を受け取るときの「ありがとうございます」は毎回丁寧で、声のトーンは高校のときと変わっていなかった。

一度だけ、薬の説明をしているときに目が合った。ほんの一瞬のことだった。彼はすぐに視線を薬袋に落とし、私もいつもの口調で「食後に一錠ずつお飲みください」と続けた。何事もなかったように。でも、あの一瞬の沈黙を、私はずっとあとまで覚えていた。

私は名乗らなかった。彼も気づいている様子はなかった。白衣を着て、髪をひとつに結んで、名札には名字しか書いていない。わからなくて当然だと思った。十七年も経てば、隣の席に座っていた女のことなど忘れているのが普通だ。

十一月の終わりだった。その日は彼ではなく、お母さんがひとりで薬局に来た。

小柄な女性だった。杖をついていたけれど、目に力があって、声ははっきりしていた。

「いつもお世話になってるわね。息子がね、ここの薬剤師さんは説明が丁寧だって」

私は曖昧に笑って「そんなことないですよ」と返した。

お母さんは薬袋を受け取りながら、何でもないことのようにぽつりと言った。

「うちからだと、駅前の薬局のほうがずっと近いのよ。なのにわざわざ商店街のこっちまで歩いて来るの。変な子でしょう」

心臓が一拍、跳ねた。気のせいかもしれない。駅前より空いているから来ているだけかもしれない。考えても仕方のないことだった。

「お気をつけてお帰りくださいね」

お母さんを見送ったあと、私はしばらくカウンターの端を握ったまま立っていた。近くの駅前のほうが近いのに、わざわざ商店街まで来る。それだけのことに、意味を見出そうとしている自分が少しおかしかった。でも胸の奥がじんと熱くなるのを、どうすることもできなかった。

その夜、閉店作業を終えてから、私はロッカーの奥にしまっていた小さな缶を開けた。高校時代の写真が数枚と、卒業アルバム。宮本晴彦のページを開いて、制服姿の写真を見つめた。十七年分だけ若い彼が、少しだけぎこちなく笑っていた。

十二月に入ると、宮本さんは来なくなった。

一週目の木曜は、たまたま都合が悪いのだろうと思った。二週目も来なかったとき、少しだけ胸がざわついた。

三週目の木曜日、お母さんがひとりで現れた。

「引っ越すことになったの。息子の仕事の都合で、来月から広島に」

「そうですか」

自分でも驚くほど平坦な声だった。でもそれ以外にどう応じればいいのかわからなかった。おめでとうございますとも、残念ですとも言えない。ただ処方箋を受け取って、いつもどおり薬を揃えた。

お母さんは薬袋を受け取って、財布をしまいかけて、ふと思い出したように鞄の中を探った。

「あ、そうだ。忘れるところだった」

差し出されたのは、小さなビニール袋だった。中に白っぽい、丸いものがひとつ入っていた。

「息子の机の引き出しにあったの。『商店街の薬局の人に渡してくれ』って言うから。何のことか私にはわからないんだけどね」

受け取った。指先が震えていたかもしれない。袋を開けた。

ボタンだった。

薄いベージュの、小さな、丸いボタン。少しだけ黄ばんでいて、端にかすかな傷がついていた。十七年という時間のぶんだけ、くすんでいた。それでも、指先に触れた瞬間にわかった。私のカーディガンについていたボタンだ。脚立の上から「あとで返して」と言った、あのときの。

お母さんが帰ったあと、私は調剤室の椅子に座ったまましばらく動けなかった。

彼は気づいていたのだ。この薬局にいるのが誰なのか。最初からなのか、途中からなのかはわからない。でも気づいていて、名乗らなかった。私と同じように。

そして引っ越す日に、ボタンを返した。十七年間、机の引き出しにしまっていたボタンを。

返すつもりだったのか、返せなかったのか。きっとその両方だった。私が催促できなかったのと同じように、彼も差し出すことができなかった。あの教室で止まったまま、お互いにずっとボタンひとつぶんの距離を縮められずにいた。

わかっている。これは恋と呼べるほどのものではなかったのかもしれない。名前のつかない、ただのかすかな引力。でもそれが十七年間、彼の引き出しの中で静かに生き続けていたことが、私にはどうしようもなく愛おしかった。

涙がひと粒、掌の上のボタンに落ちた。

翌週の木曜日。午後三時。

カウンターの向こうに彼の姿はなかった。これからもないのだろう。

私は白衣の右ポケットに、あのボタンをそっと入れた。小さくて、軽くて、何の変哲もないそれが、ポケットの底でかすかに温かい気がした。

十七年かかって届いた返事。言葉はひとつもなかったけれど、それで十分だった。

「おはようございます。お薬の準備ができましたよ」

最初のお客さんに声をかけながら、私はいつもどおりの木曜日を始めた。右ポケットの中で、ボタンが静かに揺れていた。

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