
小学校の頃、私はいじめられていた。
消しゴムを勝手に使われた。
腹が立って「やめて」と言った。
相手は、学年のボスみたいな女子だった。
その瞬間から、クラスの空気が変わった。
誰も目を合わせなくなった。
話しかけても返事が返ってこなくなった。
私は、透明な人間みたいになった。
※
中学に入っても、それは終わらなかった。
無視は続いた。
笑い声が、自分の背中に刺さるように聞こえた。
家に帰っても、胸の奥がずっと痛かった。
本気で、自殺を考えた日もあった。
ただ、音楽だけが私を止めた。
イヤホンの中にだけ、世界があった。
歌詞が、私の代わりに泣いてくれた。
※
中 2 のとき、転校した。
あの街から離れた。
そこで私は、初めて「普通」に戻れた。
友達ができた。
笑っていいんだと、思えた。
※
高校に入ってすぐ、私はバンドを始めた。
放課後のスタジオは、私の居場所になった。
ステージに立つと、世界がちゃんと私を見てくれた。
あの頃が、たぶん人生でいちばん輝いていた。
未来なんて信じられなかった私が、未来の話をしていた。
※
ある日、地元の楽器屋に寄った帰り道だった。
駅前のバス停で、見覚えのある横顔を見つけた。
あの女子だった。
私をいじめていた、あの子だった。
心臓が、変な音を立てた。
逃げたいのに、足が動かなかった。
※
彼女は気づいて、こちらへ来た。
そして、頭を下げた。
「ごめん」
短い言葉だったのに、私の胸にずしんと落ちた。
彼女の目は震えていた。
私は、うまく表情を作れなかった。
ただ、言った。
「もう、とっくに大丈夫だよ」
それは強がりではなく、本当にそうだった。
私は転校して、救われて、今ここに立っていたからだ。
※
彼女は、少しだけ安心したように息を吐いた。
それから、私の初恋の相手の話になった。
懐かしい名前が出て、私たちはほんの少し笑った。
彼女の近況も聞いた。
まるで、普通の同級生みたいだった。
時間は、残酷なくらい人を変えるのだと思った。
※
やがて、彼女の乗るバスが来た。
彼女は乗り込み、窓越しに小さく手を振った。
私は手を振り返し、バスを見送った。
そして自転車に乗ろうと、振り返った。
その瞬間だった。
※
聞いたことのない音がした。
金属がねじれて、世界が折れる音だった。
振り向くと、バスがひしゃげて横倒しになっていた。
すぐそばには、大きなクレーン車が横転していた。
道路が、戦場みたいになっていた。
※
私は走った。
走って、近づいた。
でも、そこで止まった。
怖かった。
助けたいのに、体が言うことを聞かなかった。
野次馬と同じ位置から、一歩も先へ進めなかった。
その自分が、情けなくて、苦しかった。
※
レスキュー隊が到着した。
割れた窓から、血まみれの彼女が運び出された。
目を閉じた彼女の顔が、一瞬だけ見えた。
その後の記憶は、なぜか飛び飛びになった。
音も匂いも、人の声も、霧の中に沈んでいった。
※
確か、私は病院にいた。
彼女の家族が、半日かけて到着していた。
私は、なぜかその人たちと同じベンチに座っていた。
他人なのに、席を立つことができなかった。
私の中で、何かが固まってしまっていた。
※
記憶がはっきりしたのは、兄が病院に来たあたりだった。
兄と一緒に病室に入った。
そこで見たのは、私の姉だった。
姉も、あのバスに乗っていたのだ。
ぐっすり眠る姉の体には、包帯が巻かれていた。
そして、両足が、膝のあたりで途切れていた。
目の前の現実が、信じられなかった。
※
医者の説明は、もっと残酷だった。
「高い可能性で、植物状態になるかもしれません」
言葉が、頭の中で意味を持たないまま響いた。
そこから私は、とうとう何も考えられなくなった。
※
家に帰り、そのままベッドに入った。
眠ったのか、気絶したのか、わからない。
起きても学校へ行かなかった。
食事もしなかった。
風呂にも入らなかった。
ただ、天井を見つめていた。
天井だけが、私を裏切らなかった。
※
久しぶりに食べ物を口に入れようと、キッチンへ行った。
そこで知った。
彼女が、亡くなったことを。
そして姉は、容態は安定したけれど、目覚めないことも。
私の中で、言葉にならないものが崩れ落ちた。
※
一か月ほど経った。
私は電車に乗って、彼女の家へ向かった。
通夜にも葬式にも行けなかった。
行く勇気がなかった。
でも、このまま何もしない自分を、私は許せなかった。
せめて仏壇に手を合わせたかった。
※
仏壇の前で、私は頭を下げた。
手を合わせると、指先が冷たく震えた。
何を祈ればいいのか、わからなかった。
それでも、手を合わせた。
「ごめんなさい」と「ありがとう」が、胸の奥で絡まっていた。
※
帰ろうとした私を、彼女の両親が引き止めた。
母親が、小さなメモ帳をいくつか持ってきた。
それは、彼女の日記だった。
「読んでほしい」と言われた。
私の喉は乾いていた。
でも、私は受け取った。
※
日記には、彼女の後悔が書かれていた。
私をいじめたこと。
始めたのが自分だから、途中で引き返せなくなったこと。
周りの目が怖くて、止められなかったこと。
私が転校してしまい、謝れなくなったこと。
時間が経つほど、謝るタイミングを失ったこと。
そして、最後のページ。
彼女は中学の先生に、私の転校先を聞いたと書いてあった。
謝りに行くと決めた、と書いてあった。
※
あの日の「親戚の法事で来た」は、嘘だった。
彼女は、私に会うために来たのだった。
たった一言の「ごめん」の裏に、何年分もの罪悪感があったのだと知った。
私の胸が、熱く痛んだ。
※
読み終えた私に、母親が静かに聞いた。
「あの子を、許してくれましたか」
私は言った。
「はい」
多分、涙声だった。
※
次の瞬間、母親が私の手を両手でつかんだ。
そして、何度も言った。
「ありがとう、ありがとう」
声が崩れて、鳴咽になった。
父親も、私のもう片方の手を握った。
目をそらさずに、言った。
「ありがとう」
大人が、こんなふうに泣くんだと思った。
その「ありがとう」は、私に向けた言葉でありながら、娘に届かない言葉でもあった。
胸が、息苦しいほどいっぱいになった。
※
半年後。
姉が、奇跡的に目を覚ました。
植物状態になるかもしれないと言われた姉が、私の名前を呼んだ。
その声を聞いた瞬間、私は崩れた。
泣いた。
泣いて、泣いて、やっと息ができた。
※
姉は、自分の足がない現実に最初は打ちのめされた。
それでも、少しずつ前を向いた。
リハビリを始めた。
義足の訓練を始めた。
痛みも、悔しさも、全部抱えたまま、それでも立ち上がった。
※
今では、杖なしでも買い物に出かけられるくらいになった。
スーパーの袋を提げて帰ってくる姉の背中は、以前より強く見える。
私は、その背中を見るたびに思う。
生きるって、こういうことなのかもしれない、と。
※
そして今でも、ふとした瞬間に思い出す。
彼女の両親が「ありがとう」と言ったときの顔を。
あの言葉は、私の過去を否定せずに、そっと終わらせてくれた言葉だった。
許しは、相手のためだけじゃない。
自分が、前へ進むための道にもなる。
そう教えられた気がする。
※
彼女の一周忌が、もうすぐ来る。
今度は、出ようと思っている。
あの日、彼女が命をかけて届けた「ごめん」に。
私が生きて受け取った「大丈夫」に。
そして、生き残った私たちが背負う時間に。
静かに、手を合わせに行こうと思っている。