許しの行き先

女神

小学校の頃、私はいじめられていた。

消しゴムを勝手に使われた。

腹が立って「やめて」と言った。

相手は、学年のボスみたいな女子だった。

その瞬間から、クラスの空気が変わった。

誰も目を合わせなくなった。

話しかけても返事が返ってこなくなった。

私は、透明な人間みたいになった。

中学に入っても、それは終わらなかった。

無視は続いた。

笑い声が、自分の背中に刺さるように聞こえた。

家に帰っても、胸の奥がずっと痛かった。

本気で、自殺を考えた日もあった。

ただ、音楽だけが私を止めた。

イヤホンの中にだけ、世界があった。

歌詞が、私の代わりに泣いてくれた。

中 2 のとき、転校した。

あの街から離れた。

そこで私は、初めて「普通」に戻れた。

友達ができた。

笑っていいんだと、思えた。

高校に入ってすぐ、私はバンドを始めた。

放課後のスタジオは、私の居場所になった。

ステージに立つと、世界がちゃんと私を見てくれた。

あの頃が、たぶん人生でいちばん輝いていた。

未来なんて信じられなかった私が、未来の話をしていた。

ある日、地元の楽器屋に寄った帰り道だった。

駅前のバス停で、見覚えのある横顔を見つけた。

あの女子だった。

私をいじめていた、あの子だった。

心臓が、変な音を立てた。

逃げたいのに、足が動かなかった。

彼女は気づいて、こちらへ来た。

そして、頭を下げた。

「ごめん」

短い言葉だったのに、私の胸にずしんと落ちた。

彼女の目は震えていた。

私は、うまく表情を作れなかった。

ただ、言った。

「もう、とっくに大丈夫だよ」

それは強がりではなく、本当にそうだった。

私は転校して、救われて、今ここに立っていたからだ。

彼女は、少しだけ安心したように息を吐いた。

それから、私の初恋の相手の話になった。

懐かしい名前が出て、私たちはほんの少し笑った。

彼女の近況も聞いた。

まるで、普通の同級生みたいだった。

時間は、残酷なくらい人を変えるのだと思った。

やがて、彼女の乗るバスが来た。

彼女は乗り込み、窓越しに小さく手を振った。

私は手を振り返し、バスを見送った。

そして自転車に乗ろうと、振り返った。

その瞬間だった。

聞いたことのない音がした。

金属がねじれて、世界が折れる音だった。

振り向くと、バスがひしゃげて横倒しになっていた。

すぐそばには、大きなクレーン車が横転していた。

道路が、戦場みたいになっていた。

私は走った。

走って、近づいた。

でも、そこで止まった。

怖かった。

助けたいのに、体が言うことを聞かなかった。

野次馬と同じ位置から、一歩も先へ進めなかった。

その自分が、情けなくて、苦しかった。

レスキュー隊が到着した。

割れた窓から、血まみれの彼女が運び出された。

目を閉じた彼女の顔が、一瞬だけ見えた。

その後の記憶は、なぜか飛び飛びになった。

音も匂いも、人の声も、霧の中に沈んでいった。

確か、私は病院にいた。

彼女の家族が、半日かけて到着していた。

私は、なぜかその人たちと同じベンチに座っていた。

他人なのに、席を立つことができなかった。

私の中で、何かが固まってしまっていた。

記憶がはっきりしたのは、兄が病院に来たあたりだった。

兄と一緒に病室に入った。

そこで見たのは、私の姉だった。

姉も、あのバスに乗っていたのだ。

ぐっすり眠る姉の体には、包帯が巻かれていた。

そして、両足が、膝のあたりで途切れていた。

目の前の現実が、信じられなかった。

医者の説明は、もっと残酷だった。

「高い可能性で、植物状態になるかもしれません」

言葉が、頭の中で意味を持たないまま響いた。

そこから私は、とうとう何も考えられなくなった。

家に帰り、そのままベッドに入った。

眠ったのか、気絶したのか、わからない。

起きても学校へ行かなかった。

食事もしなかった。

風呂にも入らなかった。

ただ、天井を見つめていた。

天井だけが、私を裏切らなかった。

久しぶりに食べ物を口に入れようと、キッチンへ行った。

そこで知った。

彼女が、亡くなったことを。

そして姉は、容態は安定したけれど、目覚めないことも。

私の中で、言葉にならないものが崩れ落ちた。

一か月ほど経った。

私は電車に乗って、彼女の家へ向かった。

通夜にも葬式にも行けなかった。

行く勇気がなかった。

でも、このまま何もしない自分を、私は許せなかった。

せめて仏壇に手を合わせたかった。

仏壇の前で、私は頭を下げた。

手を合わせると、指先が冷たく震えた。

何を祈ればいいのか、わからなかった。

それでも、手を合わせた。

「ごめんなさい」と「ありがとう」が、胸の奥で絡まっていた。

帰ろうとした私を、彼女の両親が引き止めた。

母親が、小さなメモ帳をいくつか持ってきた。

それは、彼女の日記だった。

「読んでほしい」と言われた。

私の喉は乾いていた。

でも、私は受け取った。

日記には、彼女の後悔が書かれていた。

私をいじめたこと。

始めたのが自分だから、途中で引き返せなくなったこと。

周りの目が怖くて、止められなかったこと。

私が転校してしまい、謝れなくなったこと。

時間が経つほど、謝るタイミングを失ったこと。

そして、最後のページ。

彼女は中学の先生に、私の転校先を聞いたと書いてあった。

謝りに行くと決めた、と書いてあった。

あの日の「親戚の法事で来た」は、嘘だった。

彼女は、私に会うために来たのだった。

たった一言の「ごめん」の裏に、何年分もの罪悪感があったのだと知った。

私の胸が、熱く痛んだ。

読み終えた私に、母親が静かに聞いた。

「あの子を、許してくれましたか」

私は言った。

「はい」

多分、涙声だった。

次の瞬間、母親が私の手を両手でつかんだ。

そして、何度も言った。

「ありがとう、ありがとう」

声が崩れて、鳴咽になった。

父親も、私のもう片方の手を握った。

目をそらさずに、言った。

「ありがとう」

大人が、こんなふうに泣くんだと思った。

その「ありがとう」は、私に向けた言葉でありながら、娘に届かない言葉でもあった。

胸が、息苦しいほどいっぱいになった。

半年後。

姉が、奇跡的に目を覚ました。

植物状態になるかもしれないと言われた姉が、私の名前を呼んだ。

その声を聞いた瞬間、私は崩れた。

泣いた。

泣いて、泣いて、やっと息ができた。

姉は、自分の足がない現実に最初は打ちのめされた。

それでも、少しずつ前を向いた。

リハビリを始めた。

義足の訓練を始めた。

痛みも、悔しさも、全部抱えたまま、それでも立ち上がった。

今では、杖なしでも買い物に出かけられるくらいになった。

スーパーの袋を提げて帰ってくる姉の背中は、以前より強く見える。

私は、その背中を見るたびに思う。

生きるって、こういうことなのかもしれない、と。

そして今でも、ふとした瞬間に思い出す。

彼女の両親が「ありがとう」と言ったときの顔を。

あの言葉は、私の過去を否定せずに、そっと終わらせてくれた言葉だった。

許しは、相手のためだけじゃない。

自分が、前へ進むための道にもなる。

そう教えられた気がする。

彼女の一周忌が、もうすぐ来る。

今度は、出ようと思っている。

あの日、彼女が命をかけて届けた「ごめん」に。

私が生きて受け取った「大丈夫」に。

そして、生き残った私たちが背負う時間に。

静かに、手を合わせに行こうと思っている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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