
私が祖父の花屋を継いだのは、二十五歳の冬だった。
商店街の端にある小さな店。看板の文字はかすれ、ガラス戸は開けるたびにきしんだ。タイルの床にはところどころひびが入り、天井のすみには水染みがあった。近所の人は「よく継いだね」と言ってくれたけれど、その声のどこかに、無理しなくてもいいのにという響きが混じっていたことを、私は気づいていた。
祖父が亡くなったのは、その年の九月だった。
八十二歳。最後まで店に立とうとして、母に止められて、それでも朝になると作業着に袖を通そうとしていたらしい。病室に見舞いに行くと、祖父はいつも窓の外を見ていた。何を見ているのか聞いても、「べつに」とだけ答えた。商店街の方角だったと、あとになって気づいた。
祖父は昔からそういう人だった。
嬉しいときも怒っているときも、表情がほとんど変わらない。言葉も少ない。母によれば、祖母が生きていた頃は祖母が全部代わりに喋っていたから、祖父は黙っていても困らなかったらしい。けれど祖母が早くに亡くなり、祖父はますます言葉をなくしていった。
私が小学校の発表会で花束を渡したとき、祖父は受け取りながら一言も感想を言わなかった。リボンを少しだけ直して、それを膝の上に置いた。それだけだった。母は「お祖父ちゃんは不器用なだけよ」と言ったが、子どもだった私には、それが冷たさとの違いがわからなかった。
中学に上がってからは、祖父の店に寄ることもほとんどなくなった。部活があった。友達との約束があった。商店街を通り過ぎるとき、ガラス越しに祖父の背中が見えても、足を止めなかった。止めなければならない理由が、あの頃の私にはなかった。
※
店を継いで最初の冬、倉庫を整理していたときだった。
花の仕入れ先のリストや古い帳簿の奥に、祖父の私物がいくつか残されていた。使い込まれた剪定ばさみ。色褪せた日本手ぬぐい。そして、古い段ボール箱の一番奥に、茶色い紙袋が押し込まれていた。
中には、えんじ色の毛糸で編みかけのマフラーが入っていた。
編み目は不揃いで、途中から目が飛んでいる。何度かほどいてやり直した跡もあった。お世辞にも上手とは言えない出来だったが、毛糸はよいものだった。触れると、やわらかく、かすかに樟脳のにおいがした。誰かのために買った毛糸だと、すぐにわかった。
誰が編んだのだろうと思った。祖母は私が生まれる前に亡くなっている。母は編み物をしない。不思議に思って紙袋の底を探ると、小さなメモが一枚入っていた。祖父の字だった。几帳面な、小さな文字。
「十一月、毛糸を買う。本を見ながらやる。」
祖父が、編んだのだ。あの節くれだった大きな手で。花ばさみしか持たなかったはずの、あの手で。
誰のために。
※
答えが見つかったのは、それから三日後のことだった。
仏壇の引き出しを整理していた母が、「こんなの出てきたけど」と、一冊のノートを持ってきた。大学ノートの表紙には何も書かれていなかった。開くと、祖父の几帳面だが小さな文字がびっしりと並んでいた。日記だった。
最初のページには日付があった。私が生まれた年の四月。
「今日、孫が生まれた。女の子。名前は咲希というらしい。小さい。」
それだけだった。でも、次のページには、翌日の日付で「また会いに行った。目が合った気がする。気のせいかもしれない」と書いてあった。
日記は毎日ではなかった。思い出したように、数日おき、ときには数週間おきに書かれていた。けれどその内容のほとんどは、私のことだった。
「咲希が店に来た。カーネーションを気に入ったらしく、ずっと見ていた。赤いのがいいらしい。来年の母の日には一本持たせてやろう。」
「今日は学校の帰りに手を振ってくれた。振り返すのが遅れた。いつもそうだ。気づいたときには、あの子はもう走っていってしまう。」
「発表会で花束をもらった。紙のリボンがついていた。咲希が自分で選んだと先生が言っていた。ありがとうと言いたかったが、言えなかった。口が動かない。情けない。家に帰ってから、花瓶に移した。一週間持った。」
あの日のことだった。何も言わずに花束を受け取った、あの日。祖父は、言えなかったのだ。言いたかったのに。口が動かなかったのだ。花瓶に移して、一週間、見ていたのだ。
ページをめくる指が震えた。
※
日記は二十年以上にわたって続いていた。
私が中学に上がって、店の前を素通りするようになった頃のページには、こう書かれていた。
「咲希が前を通った。目が合ったが、そのまま行ってしまった。もう寄ってくれない。仕方ない。あの子にはあの子の世界がある。邪魔はできない。」
その数行下にはこう続いていた。
「閉店後、花の水を替えながら考えた。何かしてやれることはないか。金を渡そうとしたら母さん(私の母のこと)に叱られた。そういうことじゃないらしい。じゃあ何をすればいい。わからない。」
そして、次のページ。
「毛糸を買った。店の本棚にあった編み物の本で、マフラーを編んでみる。咲希が高校に上がるまでに間に合えばいい。手先には自信がないが、花は扱えるのだから、糸も扱えるだろう。たぶん。」
あのマフラーは、私のためだったのだ。
日記をたどると、祖父は何度も編んではほどき、ほどいては編み直していた。「また目が増えてしまう。やり直し」「本の通りにならない。花のほうがずっとやさしい」「今日は五段進んだ。悪くない」。それでも祖父は毎晩続けていた。閉店後の暗い店の奥で、スタンドライトの下、ひとり、毛糸と向き合って。
しかし、マフラーは完成しなかった。
祖父の目が悪くなったのだ。日記にはこうあった。
「目がかすんで、編み目が見えない。眼鏡を替えたが、それでも駄目だ。ここまでにする。情けない。咲希に間に合わなかった。」
その日付は、私が高校一年の冬だった。結局、祖父はマフラーを渡すことも、編んでいたことを誰にも言わなかった。紙袋に入れて、倉庫の奥にしまった。
※
日記の最後のほうには、祖父が入院してからの記述があった。文字が大きく、震えていた。もう細かい字を書く力が残っていなかったのだろう。一行が精一杯という日が続いていた。
「咲希が来てくれた。」
「咲希の声が聞こえた。何の話をしていたか忘れた。でも声は覚えている。」
「窓の外を見ていたら、商店街の方角が見えた気がした。あの子がいつか店を開けてくれたらと思う。でも、そんなことは望んではいけない。あの子の人生だ。」
最後のページにはこう書かれていた。日付は、祖父が亡くなる五日前だった。
「咲希へ。ありがとうとごめんなさいを、どちらも言えないまま終わりそうだ。不器用でごめん。でも、おまえが来てくれる日はいつも、病室の花がきれいに見えた。」
私はノートを胸に押し当てたまま、声を上げて泣いた。母が横に来て背中をさすってくれたが、何も言わなかった。祖父の不器用さの裏側にあった、二十五年分の眼差しが、一度に胸に流れ込んできた。言いたかったのに言えなかった言葉が、ノートの中にだけ、静かに積もっていた。
※
あれから二年が経った。
商店街の花屋は、まだきしむガラス戸のままだ。看板だけは新しく塗り直した。祖父と同じ字体で「花よし」と書いた。ひびの入ったタイルも、水染みのある天井も、そのままにしている。直す気になれないのではない。直したくないのだ。
店の奥、レジの横に、えんじ色の編みかけのマフラーを小さなガラスケースに入れて飾っている。お客さんに聞かれることがある。「これ、何ですか」と。そのたびに私は「祖父の作品です」とだけ答える。上手じゃないんですけどね、と笑うと、お客さんもつられて笑う。
編み目は不揃いで、途中で止まっている。でも、あのマフラーは完成していたのだと、今の私にはわかる。
祖父が一目一目に込めた気持ちは、言葉にならなかっただけで、ずっとそこにあった。編み目の一つひとつが、言えなかった「ありがとう」であり、渡せなかった「がんばれ」だった。
冬になると、店じまいの前に商店街を少しだけ歩く。祖父が見ていたのと同じ景色を、同じ場所から眺める。シャッターの降りた店も増えたけれど、パン屋の明かりと、豆腐屋のゆげと、遠くから聞こえる踏切の音は変わらない。あの不器用な人が毎日眺めていた夕暮れの商店街は、思っていたよりもずっと、あたたかい色をしていた。