温泉街のジャズレコード

音楽店の黄昏時

ラッパの音色が聞こえた時、私は止まった。

温泉街を歩いていた。古い石畳の道。湯けむりが立ち上る。その香りに懐かしさを感じながら、ぶらぶらと歩いていただけだ。だが、その音色で、時間が止まった。

ジャズだ。それも、マイルス・デイヴィスの「So What」。

二十年前。私はその曲を一度だけ聴いた。彼のレコード店で。

あれは大学四年生の時だった。音楽教育専攻の私は、音楽科の非常勤講師の面接を受けていた。採用試験は自信があったが、実は、音楽教育の現場経験がほとんどなかった。面接の帰り、駅の近くの古い楽器店に立ち寄った。何か、心が落ち着く場所を探していたのだと思う。

「いらっしゃいませ。」

カウンターから声がした。髪の毛を少し長めに伸ばした男性。多分、同じくらいの年代だ。彼は、バイオリンの修理をしていた。傷んだ弦を丁寧に張り直しながら、私の方を見た。

「バイオリンを見にきたんです。」

「ああ、こっちですね。」

彼は修理の手を止めて、バイオリンを取り出した。丁寧に説明した。弦の張り方。音色の違い。値段と品質のバランス。その説明は、教科書的ではなく、個人の経験に基づいていた。

「このバイオリンは、十年前に修理した品です。今も、毎日、誰かの手で奏でられている。そういう道具を扱うのが、好きなんです。」

話を聞きながら、私は思った。この人は、楽器を愛しているんだな、と。そして、その愛が、本当だった。

結局、バイオリンは買わなかった。でも、彼と話をしていたかった。

「ジャズは好きですか。」彼は、突然聞いた。

「詳しくはないです。」と私は答えた。

「では、聴いてみます。」

彼はカウンターの奥に行き、レコード針を落とした。古いレコードプレイヤーが回った。

「So What」。マイルス・デイヴィスの、あの曲だ。

トランペットの音が、店の中に満ちた。柔らかくて、そして、どこか物悲しい。その音を聴きながら、私は感じた。何かが、自分の中で動く感覚を。焦燥感が、少しずつ溶けていくようだった。

「いい曲でしょう。」彼は言った。「疲れた時に聴くと、心がリセットされるんです。何かを失ったような気がしても、この曲を聴くと、新しい道が見えるような気がする。」

「リセットですか。」

「そう。だからこの店でも、毎日、この曲を流しているんです。来てくれたお客さんがね、心が楽になるって言ってくれるんですよ。」

彼は、そう言ってくれた。

それから、彼と付き合うようになった。

初デートは、その楽器店だった。営業時間後、彼が店を貸し切ってくれて、ジャズを聴きながら、二人で座っていた。薄暗い店内。古い電球の光。そして、流れるジャズ。

「将来、この店をもっと大きくしたいんです。ジャズを流す、くつろげる楽器店にしたい。修理も、販売も、そして、音楽も。すべてが繋がる場所にしたい。」

彼は、そう言った。彼の目には、光があった。

「それいいね。そういう場所、本当に必要だと思う。」

「君が、一緒にいてくれたら。」彼は、私の手を取った。

「勿論だよ。」

彼の言葉で、心が満たされた。その夜、私たちは、ずっとジャズを聴いていた。

でも、その愛は、長くは続かなかった。

大学卒業後、私は県外の学校に転勤した。彼は、父親から楽器店を譲り受けることになった。メールで連絡を取り合った。でも、やがてメールも来なくなった。

理由は、後になってわかった。彼の両親が相次いで病気になったこと。楽器店は経営難に陥ったこと。そして、彼は故郷を離れられなくなったこと。

彼からの最後のメールは、短かかった。

「ごめん。会うことができなくなった。これからも遠くから応援している。君の人生を止めないでほしい。君は、素晴らしい教師になる。その姿を思い浮かべながら、俺はここでこの店を続ける。」

それが、最後だ。

その後、私は新しい人と出会い、結婚した。普通の人生を送った。教師として生徒に音楽を教えた。でも、時々、あのジャズの音色を思い出した。そして、彼のことを思い出した。

彼は、今、どこにいるのか。何をしているのか。あの店は、今も存在しているのか。

二十年後。私は、一人で温泉旅行に来ていた。夫との関係が冷え込み、別れることになった。その心の整理をするために。

古い温泉街を散策した。懐かしいにおい。湯けむりが立ち上る。その中を歩きながら、私は見つけた。

「Mori’s Jazz Instruments」

看板が、古い建物に掲げられていた。その下には、営業時間が書かれていた。今も、営業しているんだ。

彼の名前は、森だった。

ドアを開いた。

店の中は、ジャズが流れていた。懐かしい「So What」。柔らかいトランペットの音。二十年前と同じ音が、店の中に満ちていた。

カウンターに、彼はいた。

髪の毛は、白くなっていた。でも、バイオリンを修理する手つきは、変わっていなかった。丁寧に。そして、愛情を込めて。

「いらっしゃい。」彼は、まず目を上げなかった。

「あ……」私は、言葉が出なかった。

彼が顔を上げた。その瞬間、時間が止まった。

「あ。」彼は、一言だけ言った。

そして、彼は立ち上がり、私の手をそっと取った。

「来てくれたんだ。」

「森……」

「ここに来たのは、何か理由があるんだよ。」彼は言った。「俺は、ずっとここで待ってた。お前と別れた理由が、お前のためだったからな。お前は、教師になるべき人だ。俺が足かせになってはいけなかった。だから、身を引いた。」

「待ってたって……」

「ああ。この店は、お前と一緒に作りたかった場所だ。だから、一人で作った。毎日、修理をして。毎日、ジャズを流して。『So What』を流し続けた。それは、お前との『新しい道が見える日』まで。」

彼の言葉で、私は泣いた。

二十年の間に、何度も別れを受け入れようとした。何度も、彼のことを忘れようとした。でも、忘れられなかった。

「俺は、毎日、この曲を聴いていた。」彼は続けた。「心がリセットされるって言ったのは、嘘じゃなくて。毎日、『いつか、また会える。その時、俺たちは新しく始まるんだ』って思いながら、この曲を聴いてた。何度も。何度も。」

「森……」

「お客さんがね、『この店にいると、何か前に進める気がする』って言ってくれるんですよ。それはね、俺の願いが、この曲に込められてるからだと思う。お前の人生が、輝くようにって。お前が幸せになるようにって。」

彼の目から、涙が落ちた。

「今、お前のことをどう思ってるかは、言葉にならない。だけど、もう一度、ここで、『So What』を聴きたい。お前と一緒に。」

カウンターの奥。レコードプレイヤーが回っていた。ジャズが流れていた。トランペットの柔らかい音が、店の中に満ちた。その音の中で、彼は私を抱きしめた。

二十年ぶりの再会。それは、新しい始まりではなく、実は、ずっと繋がったままだったんだ、ということを教えてくれた。

別れることで、彼は私の人生を守った。でも、その別れの中でさえ、『So What』を流し続けていた。毎日。毎日。二十年間。

「新しい道が見えるような気がする」ってあの時彼が言ったように、今、新しい道が見えた。

それは、彼とは別の人生を歩むことではなく、彼との人生を、もう一度始めることなんだ。

店の外では、温泉街の湯けむりが立ち上っていた。古い町並み。懐かしいすべて。そしてこの店。彼との思い出が、すべて、ここに詰まっていた。

温泉街のジャズレコード。あの曲が、二十年の時間を繋いでいた。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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