届けられなかった荷物

夕暮れの日本の路地

俺には、どうしても届けられない荷物がある。

宛先は知っている。住所も、表札の文字も、玄関先に置かれた鉢植えの並びも、全部覚えている。

けれど俺は七年間、その家の前を素通りし続けた。

俺は都内の運送会社で配達員をしている。担当エリアは下町の一角で、路地が入り組んだ古い住宅街だ。

軽トラックがやっと通れるような道幅の両側に、瓦屋根の家が肩を寄せ合うように並んでいる。夏は打ち水の匂いがして、冬は石油ストーブの煙が路地に漂う。豆腐屋のラッパが聞こえなくなったのはいつからだろう。この街は少しずつ変わっているのに、路地の形だけは昔のままだった。

この街は、俺が生まれ育った場所だった。

高校を出てすぐ、俺は家を飛び出した。母は俺に大学へ行ってほしかったらしい。朝も夜もパートを掛け持ちして、俺の学費を貯めていた。けれど当時の俺にはそんな母の苦労が見えていなかった。勉強は嫌いだし、早く自分の力で稼ぎたかった。

「あんたの将来を思って言ってるの」

母はそう繰り返した。食卓の向かいで、薄緑色の湯呑みを両手で包みながら。だが俺には、自分の夢を押しつけているようにしか聞こえなかった。

「うるせえよ。俺の人生だろ」

最後の夜、俺はそう吐き捨てて家を出た。振り返らなかった。母が玄関先に立っていたことに気づいたのは、翌朝になってからだ。靴箱の上に千円札が三枚、茶封筒に入れて置かれていた。封筒の表には、母の丸い字で「体に気をつけて」と書いてあった。

あの三千円を、俺はいまだに財布の奥に持っている。

配達の仕事を始めたのは二十五の時だった。いくつかの仕事を転々としたあと、たまたま求人を見つけた。担当エリアが実家のある下町だと知ったのは、初日のことだ。

異動を願い出ようかと思った。けれど先輩に「あそこは道が複雑だから、土地勘のある奴じゃないと務まらない」と言われ、断る理由を見つけられなかった。

母の家は、配達ルートから二本ほど横の路地にある。普通に走れば前を通ることはない。俺は毎日、意識してその路地を避けた。まるでそこだけ地図に穴が空いているみたいに、きれいに迂回して走った。

一度だけ、間違えて曲がったことがある。見覚えのある塀が目に入った瞬間、心臓が跳ね上がった。玄関先には、昔と同じ鉢植えが並んでいた。赤いサルビアと、小さな紫陽花。母はまだ花を育てているのだと思った。鉢の土は湿っていて、つい今朝、水をやったばかりのようだった。

俺はバックミラーも見ずに、その路地を走り抜けた。

三丁目の角に、田中さんという八十過ぎのおばあさんが住んでいる。週に一度か二度、通販の荷物を届けるのだが、届けるたびに「まあまあ、お茶でも飲んでいきなさい」と引き止められた。

最初は断っていた。けれど田中さんはいつも玄関先に湯呑みを二つ用意して待っていて、断ると本当に寂しそうな顔をするものだから、五分だけと決めて縁側に座るようになった。

田中さんが出してくれる湯呑みは、薄い緑色をした、縁がほんの少し欠けたものだった。持つとちょうど掌に収まる大きさで、どこか懐かしい重みがあった。麦茶の冷たさが、陶器を通してじんわり手に伝わってくる。

ある日、俺はその湯呑みをじっと見つめていた。

「どうしたの、そんな顔して」

田中さんが不思議そうに聞いた。

「いや……うちの母親が、これとそっくりの湯呑みを使ってたなと思って」

口に出してから、しまったと思った。母の話など、誰にもしたことがなかったのに。

田中さんは少し黙ってから、「お母さん、元気?」と聞いた。

「……さあ。もう何年も会ってないんで」

「そう」

田中さんはそれ以上は聞かなかった。ただ、湯呑みに麦茶を足してくれた。蝉の声が、やけに大きく聞こえた。

それから何度か配達に行くうちに、田中さんは少しずつ話をしてくれるようになった。

近所に住んでいる人たちのこと。商店街の豆腐屋が店を畳んだこと。町内会の花壇の世話を誰がしているか。話の端々に、この街で静かに暮らしている人たちの輪郭が浮かんだ。

そして、ある梅雨の日のことだった。

「ねえ、あんた。二丁目の角の家、知ってる?」

俺の手が止まった。二丁目の角。それは母の家だった。

「サルビアを育ててる家よ。あそこの奥さんとね、私、もう四十年の付き合いなの」

俺は黙って麦茶を飲んだ。湯呑みの縁の欠けた部分が、唇に当たった。

「あの人ね、息子さんの話をよくするのよ。配達の仕事をしてるんだって、嬉しそうに」

「……知ってるんですか」

「最初から知ってたわよ。あんた、昔この辺を自転車で走り回ってた男の子でしょう。大きくなったわねえ」

田中さんは穏やかに笑った。俺は何も言えなかった。

「あのね、お母さん、あんたが来る曜日を知ってるの。火曜と金曜でしょう、このあたり」

俺は頷いた。

「お母さんね、その日だけ二階の窓を開けるの。あんたのトラックが遠くを通るのが見えるんだって。今日も元気そうだったって、私に報告するのよ、毎回」

湯呑みを持つ手が震えた。

俺はあの路地を避けていた。母の家の前を通らないように、わざと遠回りをしていた。けれど母は知っていた。俺がこの街で荷物を届けていることを。火曜と金曜に近くを通ることを。そして二階の窓から、遠くに見える俺の軽トラックを探していた。

七年間、俺は母から逃げていたつもりだった。けれど母は一度も追いかけてこなかった。ただ窓を開けて、待っていただけだった。

「あんたが会いに来ないのも、お母さんは分かってるみたいよ。でもね、怒ってなんかいないわ。『あの子はあの子なりに頑張ってるんだから』って、いつも言ってる」

田中さんはそう言って、俺の湯呑みにもう一度、麦茶を注いだ。

「この湯呑みね、実はお母さんにもらったの。引っ越してきた時に、『うちに何個もあるから』って。同じものをずっと使ってるんだって、あの人」

そうだった。母は昔から、あの薄緑色の湯呑みで朝のほうじ茶を飲んでいた。俺が小さかった頃、台所に立つ母の背中と、湯気の向こうに見えたその湯呑みの色を、俺はずっと覚えていた。

その日の配達を終えたあと、俺はいつものルートを走らなかった。

ハンドルを切って、二丁目の路地に入った。狭い道の両側に、見覚えのある塀が続いている。夕暮れの光が瓦屋根を橙色に染めていた。どこかの家から、味噌汁の匂いが漂ってきた。

母の家の前で、トラックを止めた。

玄関先のサルビアは、七年前と同じ場所に咲いていた。紫陽花は前より少し大きくなっている。表札の文字は薄くなっていたが、読めないほどではなかった。

エンジンを切った。降りた。足が重かった。

インターホンに手を伸ばしたとき、玄関の引き戸が開いた。

母が立っていた。

七年分、小さくなったように見えた。髪に白いものが増えていた。エプロンの裾で手を拭きながら、俺を見上げていた。けれど目は変わっていなかった。俺を見るその目は、怒ってもいなかったし、泣いてもいなかった。ただ静かに、そこにいた。

「おかえり」

母はそれだけ言った。まるで俺が朝出かけて、夕方帰ってきたみたいに。

俺は口を開こうとした。謝りたかった。あの夜のことを。七年も連絡しなかったことを。けれど声が出なかった。喉の奥が、石でも詰まったように動かなかった。

母は俺の顔を見て、少し笑った。

「お茶、入れるから。上がんなさい」

台所からは、ほうじ茶の匂いがした。テーブルの上には湯呑みが二つ並んでいた。一つは母のもの。もう一つは、縁が少し欠けた、薄緑色の湯呑みだった。

俺のために、ずっと出していたのだと分かった。毎日、二つ並べて。七年間、ずっと。

母は何も聞かなかった。俺も何も言わなかった。ただ向かい合って座り、湯呑みを両手で包んだ。ほうじ茶の温かさが、指先からゆっくり体に染みていった。

あの三千円は、まだ財布の中にある。いつか母に返そうと思っていた。けれど今日は、それを渡す日ではないと思った。

まずはこの一杯のお茶を、ちゃんと受け取ることが先だった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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