
祖母の古い花屋は、城下町の商店街の角にあった。
石畳の通りに面した小さな店で、私は祖母と一緒に40年近く花を売ってきた。高校を卒業してから働き始めた私は、もう48歳。いつのまにか、この街の風景の一部になっていた。
祖母は88歳になってもなお、毎朝5時に起きて花を仕入れに行った。「花は新鮮さが命や」と何度も何度も繰り返した。その声に目覚めることが、私にとって当たり前だった。祖母のしわくちゃの手が、丁寧に枝を整える姿。その光景こそが、この町の朝の始まりだった。
祖母の仕入れのやり方は、誰が見ても分かるほどこだわっていた。花屋の仕入れ業者の中でも、祖母は「うるさい客」で知られていた。色が気に入らなければ買わない。形が不揃いだと受け取らない。「この花は、客さんに失礼や」と何度も断ったことがある。
私がもたもたしていると、小さな体で厳しい目を向けてきた。その視線の重さを感じないことはできなかった。
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私たちの関係は、いつもどこかぎくしゃくしていた。
私は不器用だ。花を活けるときも、客への対応も、祖母の期待に応えることも。指先がどうしても上手く動かず、祖母が活けた花のように優雅には決していかない。祖母の作品を見ていると、花それぞれが呼吸しているように見える。だが私の手で活けた花は、ただ置かれているだけだった。
それでも毎日、花を並べて、客を迎えた。朝の5時に起きて、祖母の後ろをついて仕入れに出かけた。帰宅してからも、活け込みを繰り返した。日中は客を迎え、夜間に翌日の準備をした。40年間、その繰り返しだった。
祖母は私の不器用さに何度もため息をついた。「どうしてそんなふうにするん」という言葉が、どれほど重く響いたか。私は言い返しもしなかった。ただ、違うやり方を試した。試して、また失敗した。その失敗を何度も何度も繰り返した。
ある日、祖母が「この子は、器用さが足りん」と客に漏らすのを聞いた。その瞬間、私の心に何かが欠けてしまった。才能の不足ではなく、自分の存在そのものが不足しているような感覚。それ以来、私たちの間には言葉が少なくなった。
仕事として花を活けるようになった。祖母のためではなく、花のために。祖母の期待に応えるためではなく、自分の職人としての尊厳のために。そういう言い聞かせ方を、私は覚えていった。
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去年の秋、祖母は倒れた。
朝5時30分。祖母が仕入れに出かけた後、戻ってこなかった。警察から連絡が入ったのは、その1時間後だった。商店街の外れの道で、祖母は倒れていたという。
脳梗塞だった。病院のベッドで、祖母は口もほとんど動かなくなった。医者は「回復は難しい」と言った。言葉は出ない。右半身は動かない。目だけが、相変わらず厳しかった。
私は毎日、閉じられたままの花屋の戸を見つめながら、祖母のいない商店街を歩いた。石畳は冷たく、風は容赦がなかった。このまま花屋が閉まったままになるのではないか。そういう恐怖が、毎晩私を襲った。
祖母が動けなくなってから6ヶ月。私は一人で花屋を守った。仕入れも、活け込みも、全部一人でやった。その時になって初めて気づいた。祖母が毎朝5時に起きていたことが、どれほど大事なことだったのか。どれほどの愛情だったのか。
毎朝、自分の体が重かった。祖母はこれを何十年も、当たり前のようにやってきたのだ。毎日毎日。風邪を引いても。足が痛くても。目が見えなくなっていく中でも。
けれど、祖母に伝える言葉を、私は持たなかった。今さら「ありがとう」と言うことが恥ずかしかった。今さら「ごめんなさい」と言うことが悔しかった。
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祖母が病院から戻ってきたのは、初夏のことだった。
右半身が動かない。言葉も出ない。でも目は、相変わらず厳しかった。私はその目が怖かった。同時に、その目が見つめる先が、いつも私であることも気づいていた。
祖母は花屋の奥の部屋に寝た。医療用ベッドを入れて、訪問看護を頼んで、世話をすることにした。毎日、祖母の食事の世話をした。体を拭いた。話しかけた。だが祖母は返事をしなかった。目で何かを言っているのだろうが、私はそれを読み取ることができなかった。
私は毎日、朝5時に起きるようになった。祖母の習慣を引き継ぐように。仕入れに行き、花を選び、花屋を開けた。その時間帯だけ、祖母が隣にいるような気がした。その時間だけ、祖母との距離が縮まるような気がした。
ある日、祖母の部屋から、折り紙が見つかった。
無数の折り鶴だ。引き出しの中に、積み重ねられていた。色とりどりの折り紙から生まれた千羽近い鶴。右手だけで折ったであろう、多くの鶴は歪んでいた。
病院にいた間も、家に帰ってきてからも、祖母は折り続けていたのだ。右手だけを動かしながら。何度も何度も折り直しながら。いつ。どうやって。そんなことを考えながら、祖母の手を見つめた。動かない右手。動く左手。その左手の先に、無数の折り鶴があった。
私は、その光景が想像できなかった。祖母がそこまで、器用ではない右手で、こんなにも多くの折り鶴を、こんなにも丁寧に折り続けたことが。
引き出しの底には、日付けが書いてあるものもあった。「8月15日」「9月2日」。それは、祖母が病院にいた時期の日付けだった。
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昔、母が言ったことがある。
「お祖母ちゃんの不器用さは、工夫から来たもんや」と。
私は、その言葉をずっと忘れていた。
祖母がどうして毎朝5時に起きるのか、わかった。その時間だけ、祖母だけの時間だったのだ。客のためではなく、自分のためでもなく。私のために。花屋を継ぐことになった娘のために。
祖母がどうして花にこだわるのか、わかった。花は、言葉ではなく形で思いを伝える。花は、祖母が私に伝えたかったことそのものだったのだ。
祖母がどうして、私に何度も何度も同じことを繰り返すのか、わかった。諦めていなかったからだ。不器用な娘でも、いつか分かるようになると信じていたからだ。
祖母は、慎重だった。完璧を求めなかったのではなく、ひとつひとつを大事にしていたのだ。不器用だからこそ、何度も確認した。何度も試した。それを、私は厳しさだと勘違いしていた。
折り鶴の歪みが、祖母の一生懸命さを示していた。右手だけで、何度も何度も折り直されたその形が。完璧ではないが、必死の形が。
右手だけで、言葉も十分には出さずに、祖母は何かを伝えようとしていたのだ。「がんばれ」と。「あきらめるな」と。「お前の不器用さは悪いことじゃない」と。
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折り鶴を見つけた翌日の朝、私は祖母に話しかけた。
祖母の右手を握った。その手は、冷たく、小さく、か細かった。握ったまま、言った。「これ、全部祖母がやったん?」
祖母の目が、少し潤んだ。口元が、わずかに動いた。声にならない声が漏れた。
その瞬間、私はわかった。祖母の視線の意味を。あの厳しい目の奥に何があったのか、を。
「ありがとう」と、私は言った。「祖母が、毎朝5時に起きてくれてたこと、全部わかった。祖母の不器用さも。その中にあった優しさも。全部」と。
祖母は、激しく頭を揺らした。左手で私の手を握り返した。力いっぱい。動かない右手でも、左手は力を込めていた。その手の温かさが、40年間の言葉にならない愛情そのものだった。
※
今、祖母と私は一緒に花屋に立つ。
祖母は車いすからでも、花を見ることができる位置に座る。私がやることを見守る。時には左手で指を差す。「そこや」と、目で言う。その時、祖母の目は優しい。厳しさの奥にある、深い愛情だけが見える。
私は、祖母と同じように注意深くなった。祖母と同じように、ひとつひとつを大事にするようになった。それが、祖母が私に教えてくれたやり方だったのだ。
折り鶴は、今も増えている。祖母が折ったもの。右手だけで。言葉もなく。これからも増えるのだろう。その折り鶴が、祖母からのメッセージであることを、もう私は間違えない。
城下町の商店街の角で、毎朝5時。私はいま、祖母と同じ時間に目覚める。祖母の手を握りながら、新しい一日が始まる。それが、祖母からの最大の贈り物だったことに、気づく朝は、もう来ない。
だから今日も、丁寧に花を活ける。祖母が活けるように。祖母の不器用さの中に隠された、深い優しさを、私も伝えたいから。