
クロ、元気か。
私と私のお布団のない、そっちで。
どうやって寝ているんだい。
ちゃんと、あったかくて気持ちいい場所を見つけたか。
こっちは相変わらずだよ。
夜になると、私はいまだに寝床でおまえを待ってしまう。
癖みたいなものだ。
消そうとしても、消えない。
電気を消して、布団を整えて、横になる。
すると、右肩のあたりが少しだけ空くように、無意識に体が動く。
あそこが、おまえの入口だったから。
肩とふとんの隙間に、ひょいと鼻を突っ込んで。
しばらく、ふんふんと匂いを嗅いでから。
するすると入ってくる、おまえのひんやりした体。
最初の一瞬だけ冷たくて、すぐに私の体温で温まっていく。
私がいそいそと横向きになると、おまえは待ってましたみたいに背中をぴたりとくっつけて。
私の脇に、お尻をきっちりとはめ込んで。
まっすぐな尻尾で、頬をさらりと撫でてくれたね。
あれは、合図だった。
「寝るぞ」って。
「ここが、いつもの場所だ」って。
毛並みはさ。
正直に言うと、『絹糸のような』なんて、お世辞にも言えなかった。
少しごわっとしていて、季節によっては抜け毛もすごくて。
掃除機をかけても、次の日にはまたふわっと床に落ちていた。
でも、その毛並みが、私には現実だった。
おまえがそこにいるっていう、証拠だった。
その体を撫でながら眠りにつけた私は、どんなに贅沢だったんだろう。
今になって、やっと分かる。
たぶん私は、あの頃ずっと必死だった。
生活も気持ちも、いろんなことが不器用で。
うまく笑えない日もあった。
誰にも言えない疲れを抱えて、帰ってきて。
部屋に鍵をかけた途端、力が抜ける夜があった。
そんな時でも、おまえはいつも同じ顔で迎えてくれた。
大げさな励ましはしない。
ただ、いる。
ただ、体温を渡してくる。
それだけで、人は生き延びるんだな。
おまえは、私が出会った最初の家族だから。
家族って、血のことじゃないんだって。
その時に教えてくれたのも、おまえだ。
私の今までを、一番知ってくれているのもおまえだ。
格好悪いところも、弱いところも。
誰かに見せる前に、先におまえが見ていた。
すかしっぺは、めったにしなかったよね。
だから油断するんだ。
あれは強烈だった。
布団の中で「何が起きた」って本気で起き上がったこと、覚えてる。
おまえは涼しい顔で、しれっと尻尾を一回振るだけ。
あれ、悪意がないのが逆に怖い。
もし、そっちでいい飼い主を見つけているなら。
……やらない方がいいと思うよ。
最初の印象って大事だから。
なんて、言っても。
おまえは、聞かないだろうな。
好奇心が強くて。
開けちゃいけない引き出しほど、開けたがって。
触っちゃいけないものほど、前足を伸ばして。
そして、怒られると分かっているのに、なぜか誇らしげな顔をしていた。
私はあれに、何度も救われた。
笑ってしまうっていうだけで、人は少し軽くなる。
でも、クロ。
今の私は、笑いながら泣くことが増えたよ。
泣くつもりなんてないのに。
ふと、寝返りを打った瞬間に。
右肩のあたりが、空っぽだと気づいてしまうだけで。
胸の奥が、音もなく沈む。
「もう来ない」っていう事実を。
毎晩、もう一度だけ確認してしまう。
それでも私は、怒らない。
おまえがどこに行っていても、いつか会いに行くからね。
本当は、おまえに迎えに来てほしい。
私の最後の瞬間に。
いつものように、右肩のふとんの隙間から。
するするっと入ってきてくれたら。
どれだけ幸せな気持ちで、逝けるだろう。
でも、おまえはきっと。
今は、夢中なんだろうな。
空腹もない。
病気も事故もない。
悪さをする人もいない。
追いかける音も、怖い影も、痛みもない。
そこで自由気ままに、探検し放題で。
気になる匂いを見つけたら、どこまでも追いかけて。
高い場所にも、軽々と登って。
眠くなったら、好きなところで丸くなる。
そんなふうにしているんだろう。
うっかり私のことを忘れたとしても、私は怒らないよ。
思う存分、遊びなさい。
もう苦しくもない。
痛くもない。
思うように動く、元気な体を楽しんでおくれ。
こっちはこっちで、やっていく。
おまえが教えてくれた、体温の記憶を抱えたまま。
誰かに優しくできなかった日は、せめて自分にだけは嘘をつかないで眠る。
寂しい日は、寂しいって認める。
それでもちゃんと、生きる。
おまえに恥ずかしくないように。
いつか私も、そっちに行ったら。
気の向いた時にでも、会ってくれればいい。
走って来なくていい。
派手に鳴かなくていい。
ただ、あの時みたいに。
ふんふんと匂いを嗅いでから。
するすると、私のそばに入ってきてくれたら。
それだけでいい。
……とは言いつつ。
今すぐにでも会いたいのが本音だ。
夢の中で、ちょっとだけ姿を見せて。
名前を呼びそうになると、すっと消えるのは。
じらすのが上手すぎる。
意地悪すぎないかい。
クロ。
今夜も私は、右肩を少しだけ空けて眠るよ。
来ないって分かっていても。
それでも、待ってしまうんだ。
おやすみ。
またね。