
薬剤師として働き始めて七年目の春、白衣のポケットの中でお守りの紐が切れた。
小さな布袋が手のひらに落ちてきた。
藍色の布に、白い糸で雑な縫い目が走っているそれを、俺は見覚えがあった。
じいちゃんが、最後に会った日に渡してくれたものだ。
※
俺が育ったのは、九州の北端にある小さな港町だ。
山が海際まで迫った地形で、冬になると北からの風が真っすぐ入ってきた。
港の岸壁に立つと、塩の匂いが混じった風が頬を叩いて、目が自然と細くなった。
祖父は港で小型漁船を持っていた。俺が生まれた頃からずっと、夜明け前に船を出して、昼前には戻ってくるのが日課だった。
帰ってくる時間になると、防波堤の向こうに小さな船影が見えてくる。エンジン音が遠くから近づいてきて、岸壁に縄がかかる。その瞬間が好きで、小学生の俺はよく波止場まで走って迎えに行った。
じいちゃんは口数が少ない人だった。
愛情を言葉にするのが下手だった。褒めることも、励ますことも、謝ることも、全部不得意だった。
小学校の運動会で一等になっても、「そうか」の一言で終わった。
中学の定期テストで学年一位を取った時も、「勉強してたのか」とだけ言った。
それでも、じいちゃんは俺が学校から帰ると、決まって台所にいた。
何をするでもなく、漁で使う仕掛けの糸を繕っていたり、港で拾ったらしい浮きに塗料を塗っていたりした。俺が玄関を開けると、振り返りもせずに「飯あるぞ」と言った。
それがじいちゃんの、迎え方だった。
※
高校二年の春、俺は薬剤師になりたいと言った。
夕飯のあとだった。父も母も「そうか」と頷いた。薬学部の受験は難しいが、お前なら大丈夫だろうという顔をしていた。
じいちゃんだけが違った。
茶碗を持ったまま、少し間を置いて言った。
「薬剤師は女の仕事だろうが」
食卓が静かになった。
「女がするような座り仕事を選ぶのか。お前は体を使う仕事に向いとる」
俺は言葉が出なかった。それから怒りが来た。
何も言わずに席を立ち、自分の部屋に入った。
翌日も、その翌日も、じいちゃんと目を合わせなかった。朝飯も、じいちゃんのいる台所を避けて早めに出るようにした。
じいちゃんは何も言わなかった。
謝るでもなく、弁解するでもなく、ただ毎朝台所に座って、漁の道具を繕っていた。
俺の怒りは、時間が経つほど積もった。
謝らない人間を許す方法を、俺はその頃まだ知らなかった。
※
大学は県外に出た。
六年制の薬学部に進み、国家試験をパスして、都市部の調剤薬局に就職した。
働き始めると、じいちゃんへの電話は月に一度あるかないかになった。帰省するのも、盆と正月だけになった。それも、用事が終わればすぐ戻るようにした。
帰省しても、じいちゃんとまともに話すことはなかった。食卓で顔を合わせて、天気の話をして、港の話を少しして、それで終わった。
あの日の「女の仕事」という言葉が、喉の奥にまだひっかかっていた。
じいちゃんが何か言いたそうな顔をすることが、何度かあった気がする。でも俺は、先に席を立つようにしていた。
薬剤師として働く七年間、俺は自分の仕事に誇りを持っていた。患者さんと向き合い、処方箋を確認し、薬の用法を説明し、副作用に気をつけながら毎日を送った。高齢の患者さんから「あなたに説明してもらうと安心する」と言われることも、珍しくなかった。
「女の仕事だろうが」という言葉が、俺の中でじわじわと否定されていくような七年間だった。
だから余計に、許せなかったのかもしれない。
※
じいちゃんが認知症になったと知らされたのは、三十二歳の冬だった。
母から電話があり、「帰ってこれる?」と言われた。声のトーンで、急いだほうがいいとわかった。
急いで帰省すると、実家の居間でじいちゃんが座っていた。少し縮んで見えた。目が柔らかくなっていた。港の男の顔ではなく、ただの老人の顔になっていた。
「俺だよ、じいちゃん。孫の翔也だよ」
じいちゃんはしばらく俺を見て、「翔也か」と言った。それから顔が少し崩れた。
「でかくなったな」
俺は三十二歳だった。でかくなるような年齢でもなかったが、黙って頷いた。
じいちゃんはその日、ずっと手を動かしていた。
膝の上に藍色の布切れを置いて、白い糸で何かを縫っていた。器用な手つきではなかったが、何度も針を刺して、丁寧に縫い続けていた。
母が「何を作ってるの?」と聞くと、じいちゃんは「お守りだ」と短く答えた。
しばらくして、じいちゃんは縫いかけのそれを俺に差し出した。
「持ってけ」
縫い目はまだ粗く、角が揃っていなかった。中に何か挟んで縫っているようだったが、何なのかはわからなかった。
「ありがとう」と受け取った。
本音を言えば、どうしていいかわからなかった。捨てることもできなかった。職場の白衣のポケットの底に、そっと入れた。そのまま七年が過ぎた。
じいちゃんはその翌年の秋、静かに逝った。
肺炎だった。入院から二週間も経たないうちに、眠るように逝った。
面会した最後の日、じいちゃんは俺の名前をもう言わなかった。目だけがこちらを見ていた。
俺は「来たよ」とだけ言って、横に座った。じいちゃんの手は、思っていたより小さかった。甲の皮膚が薄くなっていた。何十年も海水と漁網にさらされてきた手が、こんなに細くなっていた。
その手を握ることができないまま、面会の時間が終わった。
※
じいちゃんが逝ってから四年が過ぎた。
薬局の仕事は変わらず続いていた。窓口で患者さんと向き合い、薬袋を渡し、用法を確認する。
港町の出身だと話すと、年配の患者さんに「あのあたりは海がきれいなところだね」と言われることがある。そういう時、俺は少し懐かしくなる。早朝の岸壁。北風の匂い。防波堤の向こうからエンジン音が近づいてくる朝のこと。
そしてその春の一日、白衣のポケットの中で、紐が切れる感触があった。
手を入れると、藍色の小さな布袋が出てきた。縫い目が開いていた。
中から、細く折り畳まれた紙が一枚、するりと落ちてきた。
※
休憩室で、俺はその紙を開いた。
七年分の折り目と、白衣のポケットの熱で、しわくちゃになっていた。
じいちゃんの字だった。震えのある、不揃いな文字が鉛筆で書かれていた。
「薬剤師はえらい仕事だ。体が悪くなった時、正しい薬を出してくれる人がおるから俺たちは助かる。お前がそれをするときいた時、なんでか知らんが嬉しかった。でもそういうことがうまく言えん。港の男はてれかくしにひどいことを言う。ゆるしてくれ。」
句読点が少なく、漢字も怪しいところがあった。
でも俺にはわかった。じいちゃんが、自分の字で、自分の言葉で書いたものだとわかった。
認知症になってから、言葉が出にくくなってから、針と糸でこれを縫い込んだのだとわかった。
俺は休憩室の椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。
マグカップのコーヒーが冷えていくのを感じながら、何度も、何度も、その字を読んだ。
「てれかくしにひどいことを言う」
あの夕飯の夜のことを思い出した。食卓の静寂。俺が席を立つのを、じいちゃんはどんな顔で見ていたのだろう。俺が電話しなくなっても、帰省が減っても、じいちゃんは何を感じていたのだろう。
謝らなかったんじゃない。
謝れなかったのだ。
十数年間、ずっと。
言葉がうまく出なくなってから、やっと、縫い込んだ。
俺の方こそ、何で気づかなかったのか。
あの頃じいちゃんが台所にいた理由を、今の俺はわかる。「飯あるぞ」と言い続けた理由も。三十二歳になった俺に「でかくなったな」と言った時の、崩れた顔の意味も。
港で小さな船影が見えるたびに波止場へ走った子どもの頃のことを、俺は急に思い出していた。
じいちゃんはあの頃から、うれしかったのだ。
ただ、それをうまく言えない人だったのだ。
目の前が滲んだ。
薬局の休憩室で、三十九歳の俺は、声を出さずに泣いた。
※
今でも仕事をしながら、じいちゃんのことを思う。
年配の患者さんに薬袋を渡す時、特に手が不自由そうな方に袋を開けながら丁寧に説明する時、ふとじいちゃんの手を思い出す。
甲の皮膚が薄くなっていた、あの最後の日の手を。
薬剤師として患者さんの体を支えることが、じいちゃんへの約束のような気がしている。言葉では交わしていない約束。でも、あのメモを受け取った日から、そんな気がしている。
メモは今、財布の中に入れてある。
じいちゃんが縫った藍色の布は、縫い目が開いてしまったけれど、別の小袋に包んで引き出しの中に置いてある。
夜明け前に船を出していた港の男のことを、俺はこれからもずっと思い続けると思う。
ゆるしてくれ、と書いてくれた人のことを。
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