カテゴリー: 長編

じっくり読みたい方のために、長編の泣ける話を集めました。短編では描ききれない人物の背景、感情の重なり、時間の経過——読了後に深い余韻が残る、長編の感動する話をお届けします。

母の煮物が濃くなった春

母の煮物は、私が高校2年の春から急に濃くなった。しょっぱい、と何度も言った。母は笑うだけで、味つけを戻さない。22年後、手首を痛めた母の代わりに台所へ立った私は…

理容椅子はまだ半回転する

団地の商店棟で37年、鋏だけを握ってきた。妻は3年前から丘の施設にいて、俺を先生と呼ぶ。理容椅子は客が座る前に半回転させる。それがうちの店のやり方だった。壊れた…

はね出しの花が毎月消える

店の奥、水道の脇の白いバケツには、売り物にならないはね出しの花が挿してある。毎月14日、そこから一輪だけが消える。電話をかけてくるのは毎回ちがう人で、みんな22…

辻堂前のボタンは鳴る

海沿いの営業所に入って二年目、私はまだ誰からも名前で呼ばれなかった。誰も乗っていないのに、夕方の便で辻堂前のボタンが鳴る。配線の不良だと思った私に、定年間近の先…

第二日曜に母は出かける

母の鞄には、よく晴れた日にも折りたたみ傘が入っていた。第二日曜だけは用事があると言って、私の誘いはいつも断られた。母が入院した週、財布に残っていた交通系ICカー…

左手だけが知っている色

毎月第1火曜の夕方だけ、先生は9本だけ塗らせる客としてやって来た。右手の薬指はいつも「そこはいいから」と折り曲げて、私に触らせない。3年で36回。手の震えで筆を…