
祖父は、よく俺に怒鳴った。
小学校の低学年の頃、俺が台所に入って包丁を触ろうとしたとき。中学生の頃、学校の定期試験で数学が三十点だったとき。高校生になって、「こんな田舎、早く出てやる」と母に言い放ったとき、隣の部屋で聞いていた祖父が廊下へ飛び出してきた。
「馬鹿か、お前は」
それだけだった。怒鳴って、また部屋に引っ込んだ。
俺は顔をそむけた。謝りもせず、ただ押し黙った。あの人が何を考えているのか、俺には最後までわからなかった。
※
祖父は九州の港町で生まれ育ち、二十歳から造船所で働いた。定年退職まで四十年近く、鉄と機械油の匂いの中で生きた人だった。
日焼けした肌に、骨太な肩。両手の指はごつごつして節くれだっていて、食卓で箸を持つとき、テーブルに当たってコツコツ音を立てた。そんな手で繊細なものを扱う場面を、俺は一度も見たことがなかった。
父が三十八で逝ったのは、俺が五歳の夏だった。
母は俺を連れて、この港町に戻った。祖父と祖母の家に転がり込む形で、俺たちの三人暮らしが始まった。祖母は入れ替わるように翌年逝ったから、その後はずっと、祖父と俺と母の三人だった。
朝、起きると台所に祖父の背中があった。
アルミの弁当箱にご飯と焼き魚と漬物を詰めて、蓋をして、カバンに入れる。毎朝それだけやって、俺のほうを見ずに玄関を出て行く。それが小学校に上がる前から続いていた。造船所は港のすぐそばで、夜明け前に出ないと間に合わなかった。台所の蛍光灯が点いたまま、祖父の背中が暗い玄関に消えていくのを、俺は布団の中から何度も見送った。
「誰の弁当?」
一度だけ聞いたことがある。六歳か七歳の頃だった。
祖父は手を止めなかった。
「お前のだ」
それだけ言って、蓋を閉じた。
保育園の給食が、翌日からあのアルミの弁当箱に変わった。先生に「おじいちゃんが作ったの?」と聞かれたとき、俺はなんだか恥ずかしくて首を横に振った。今でも、そのことをときどき思い出す。
※
小学校に上がっても、弁当は続いた。
中身は毎日少しずつ違った。秋になると里芋の煮物が入っていた。冬には白菜と豚肉の炒め物。春の遠足には、俺の好きなのり巻きが一本だけ入っていた。頼んだことは一度もなかった。なぜ好みを知っているのかも聞けなかった。弁当箱の蓋を開けるたびに、少しだけ変な気持ちになった。どう表現するのかわからない気持ちだった。
クラスメートは弁当の匂いが気になると笑った。
五年生の秋、俺は「もう給食でいい」と祖父に言った。給食費は払うから、と母に話をつけた。
翌朝から、台所に祖父の姿はなかった。
何も言われなかった。ただいつもの朝が、静かなままになった。弁当箱は食器棚の奥にしまわれた。俺はそのことを、ほとんど気に留めなかった。
何年もたってから、あれは傷つけたんだと気がついた。
※
高校を卒業して、俺は大阪の薬科大学に進んだ。
この港町を出たかった、というのは本当だった。でも薬学を選んだのは、子供の頃から薬局が好きだったからだ。母が風邪薬を買いに行くとき、必ずついていった。白衣の薬剤師さんが、一つひとつ丁寧に説明してくれるのが好きだった。祖父には関係のない理由だった。
大学の六年間で、俺は帰省を年に一度に減らした。それでも正月だけは帰った。
祖父は相変わらず無口だった。食卓で向かいに座っても、目を合わせなかった。俺も話しかけなかった。母だけが、二人の間で取り繕うように喋り続けた。食卓を離れると、祖父は縁側に出て煙草を一本吸った。夕暮れの港を眺めながら、一人で煙を吐いていた。俺はその背中を、廊下から一度だけ見た。
帰りに玄関を出るとき、祖父は居間で新聞を読んでいた。
「じゃあ、行ってきます」
返事はなかった。新聞のページをめくる音だけが聞こえた。
それが普通だと思っていた。
※
薬剤師の国家試験に合格したのは、二十四歳の春だった。
母は電話口で泣いた。「よかった、よかった」と同じ言葉を繰り返した。俺は「大げさやって」と笑いながら、なんだか目の奥が熱くなった。
「おじいちゃんにも知らせなきゃ」と母が言った。
「いい。どうせ何も言わんから」と俺は答えた。
それきり話題を変えた。
祖父からは何の連絡もなかった。おめでとうの一言もなかった。やっぱりそういう人だ、と思った。
※
祖父が逝ったのは、それから六年後だった。
肺炎だった。造船所を退職してからは漁師の手伝いをしていたが、七十四の冬に入院した。三週間も経たないうちに、逝った。
俺は最後に一度だけ見舞いに行った。
病室の廊下は消毒液の匂いがした。ベッドに横たわった祖父は、俺の記憶よりずっと小さかった。あの頑丈な体がしぼんで、白いシーツの中に沈んでいた。点滴のチューブが甲の節くれだった手につながっていた。
目を覚ました祖父は、俺の顔を見て二秒ほど黙った。
「和樹か」
「うん」
「遠かったか」
「飛行機だったから三時間ぐらい」
それだけだった。祖父はまた目を閉じた。俺は椅子に腰かけて、窓の外の灰色の空を見ていた。言いたいことはあった。「ありがとう」でも「ごめん」でも、どちらでもよかった。でも何も口に出せなかった。
二時間後に病室を出た。
その三日後に、祖父は逝った。
※
葬儀から一週間して、母から連絡が来た。
「おじいちゃんの部屋を片付けてるんだけど、和樹に渡したいものがある」
初秋の終わりに港町に戻ると、潮の匂いが出迎えた。子供の頃と同じ匂いだった。漁港の方から低いエンジン音が聞こえて、空は抜けるように青かった。祖父の家の前の道を歩くと、石畳の隙間に雑草が生えていた。それを見て、なぜか急に泣きたくなった。
祖父の部屋は六畳一間で、押し入れに段ボールが三つ積んであった。工具に釣り道具、古い書類。一番下の段ボールを開けたとき、俺は息を止めた。
古いアルミの弁当箱が、工具の隙間に入っていた。
蓋の縁が少し錆びていた。でも形はそのままだった。三十年近く前に台所でいつも見ていたあの弁当箱だった。
「これ、持ってってあげて」と母が言った。「あんたが小学生の頃から使ってたやつよ」
俺は弁当箱を手に取って、蓋を開けた。
中は空だった。
空だったが、底に一枚の薄い紙が折り畳まれて入っていた。
広げると、祖父の筆跡だとすぐわかった。ゆがんだ角張った字で、三行書いてあった。
「薬剤師 和樹 国家試験合格 おめでとう」
「職場の奴らに自慢した。みんなびっくりしとった」
「どうか体に気をつけろ。ありがとう」
それだけだった。
俺は部屋の床に座ったまま、しばらく動けなかった。
窓から潮風が入ってきて、カーテンをゆらした。港のエンジン音が、波に乗って聞こえてきた。弁当箱の縁の錆が、指先に少しついた。それを拭おうとして、やめた。
※
台所で母が温めてくれた味噌汁を飲みながら、俺は弁当箱の紙のことを話した。
「知ってたよ」と母は言った。「合格の電話をしたとき、おじいちゃん黙ってたけど、それから毎日ニヤニヤしてた。近所に自慢して回ったって後で聞いたよ」
「なんで直接言わないんだ」と俺は言った。
「言えない人だったから」と母は笑った。「弁当だって、ありがとうって言ったことないでしょ、あの人」
そうだ、と思った。
怒鳴ることはできた。でも、やさしくすることができなかった。子供の頃の俺に弁当箱を渡すとき、目を合わせなかったのは照れていたからかもしれない。弁当を「もうやめてくれ」と追い払った日、翌朝から台所に来なくなったのは、怒りではなく、傷ついたからかもしれない。
病室でほとんど何も言えなかったあの夜、俺も同じだったと気がついた。
わからない。もう聞けない。
でも、それでいいような気がした。
※
今、俺の調剤室の棚に、あのアルミの弁当箱が置いてある。
白衣の背中側、薬の瓶が並ぶ棚の端に、少し錆びた蓋の弁当箱がある。患者さんにたまに「なんですか、それ」と聞かれる。
「おじいちゃんのです」と答えると、みんな少し目を細める。
弁当箱は、ただそこにある。
俺はまだ、うまく人に感謝を伝えられない。でも、いつかきっと伝えようと、あの弁当箱を見るたびに思う。
祖父が四十年かけて刻んでいたものを、俺もこうして少しずつ覚えていく。