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幼馴染の日記と壊れた眼鏡

湖

俺が旅先から戻ると、玄関に小さな段ボール箱が届いていた。

差出人の欄に「相川朋子」とあった。

相川。その苗字を見た瞬間、手が止まった。

亜季ちゃんのお母さんだ、と気づくのに、しばらくかかった。

俺と亜季ちゃんは、長野県の山奥にある湖畔の小さな町で育った。

秋になると朝霧が深く立ちこめ、湖の水面が白くかすんで消えてしまいそうな、そんな場所だ。

俺の実家の隣に、亜季ちゃんの家があった。

小学生の頃、毎朝登校前に二人で湖の岸辺まで歩いていった。

特に目的があったわけじゃない。ただ石を投げたり、水面に映る山の影を眺めたりするだけだったけど、毎朝そうしないと一日が始まらない気がしていた。

亜季ちゃんはいつも丸い眼鏡をかけていた。少し古風な、金色のフレームのやつだ。

「祖父のお下がりだよ」と彼女は照れくさそうに言った。

「なんでそんなの使ってるの」

「サイズが合ってるから」

「合ってないじゃん、ずり落ちてるじゃん」

「うるさい」と言って、彼女は鼻の上で眼鏡を直した。その仕草が好きで、俺はわざとそういうことを言っていた。

俺が写真を好きになったのも、あの湖がきっかけだった。

朝もやの中で光が水に溶ける瞬間を、何かに残したいと思った。父親のカメラを借りて、毎日シャッターを切った。

高校を出てから写真の専門学校に進み、卒業後はフリーのフォトグラファーとして各地を転々とする生活になった。

亜季ちゃんは地元に残り、図書館で司書として働いていた。

年に一、二度の電話でしか話さなくなってからも、彼女の声を聞くたびに、あの湖畔の朝のことを思い出した。

「また帰ってきたら話しかけてよ」と彼女はいつも言った。

「ちゃんと帰るよ」と俺はいつも答えた。

そのたびに彼女が「約束ね」と言うのが、俺は好きだった。

三十一歳の春、三年ぶりに地元に帰った。

亜季ちゃんに連絡して、あの湖のそばで待ち合わせた。

春先の湖は、まだ少し肌寒かった。

彼女はすこし痩せていた。頬がこけて見えたけれど、眼鏡は変わらず金色のフレームのままだった。

二人でベンチに座って、しばらく何も言わずに水面を見ていた。

「写真、続けてるの?」

「続けてる。先月、雑誌の表紙に使ってもらった」

「そっか」と彼女は静かに言った。「よかった」

少し間があった。風が吹いて、水面に小さな波が立った。

「ね、哲也」

「ん?」

「もう会いに来なくていいよ」

俺は言葉を失った。

「え。何で」

「哲也が頑張ってるじゃない。向こうで。地元のことなんか気にしなくていいよ。こっちはこっちで大丈夫だから」

笑顔で言うから、余計に意味がわからなかった。

「亜季ちゃん、何かあったの」

「何もないよ。ただ思っただけ」

「じゃあなんで急に」

「急じゃないよ。前から思ってた」

彼女は立ち上がった。「じゃあね」と言って、振り返らずに歩いていく背中を、俺はただ見ていた。ベンチから立ち上がれなかった。

帰り道、俺はまだその場所に立ったままでいた。

視線を落とすと、砂利の上に眼鏡のフレームが落ちていた。俺のものだった。さっき彼女の横に座ったとき、ポケットから落としたんだろう。

拾い上げようとしゃがんだ瞬間、踏んでしまった。

レンズにひびが入る音が、静かな湖畔によく聞こえた。

壊れた眼鏡を握りしめたまま、俺は駅へ向かった。

胸のどこかに、長い間大切にしていたものが、静かに崩れていく感覚があった。

それ以来、地元には帰らなかった。電話もしなかった。亜季ちゃんからも連絡は来なかった。

それから四年が経った。

俺は相変わらず、各地を旅しながら写真を撮り続けていた。

東北の漁港で夜明けを撮った。九州の山間で霧の中に立つ神社を撮った。北海道の牧草地で、地平線に沈む夕陽を撮った。

どこへ行っても、水面に光が溶ける瞬間を見るたびに、亜季ちゃんの顔を思い出した。

丸い眼鏡越しに俺を見る目。少し遠慮がちで、でも温かい目。

「もう来なくていいよ」という言葉を、何度反芻しても、腑に落ちなかった。理由がわからないことが、ずっと引っかかっていた。頭で考えれば考えるほど、あの日の亜季ちゃんの顔が遠くなる気がした。

新しいカメラを買っても、好きな写真が撮れても、どこかぽかんと穴が空いているような感じが続いていた。

その年の十月、亜季ちゃんのお母さんから電話がかかってきた。

「哲也くん。亜季が……先月、亡くなったの」

電話口で声が遠くなった。

「えっ」

「ずっと体が悪くてね。誰にも知らせたくないって言って、頑固な子だったから」

「……何の、病気だったんですか」

「膵臓。四年前に見つかってね」

俺は何も言えなかった。四年前。俺が最後に会ったのは、あの春だった。

「哲也くんに渡したいものがあって。亜季が持っていってほしいって。宅急便で送るから受け取ってくれる?」

それだけ言って、電話は終わった。俺はしばらく部屋の中に立ったまま、動けなかった。

膵臓。四年前に見つかって。

あの日の亜季ちゃんの顔が浮かんだ。少し痩せていた頬。眼鏡越しにこちらを見た目。

「もう会いに来なくていいよ」。

……知っていたんだ。

先に逝くことを、あの時もう、わかっていたんだ。

届いた段ボールの中には、一冊の日記帳と、小さな封筒が入っていた。

封筒には「哲也へ」とだけ書いてあった。

俺はしばらく、どちらも開けられなかった。

テーブルの上に置いたまま、窓の外の空をただ見ていた。雲が流れていくのを、どのくらい眺めていただろう。

それからゆっくり、封筒を開けた。

「哲也へ

あの日、湖のそばで冷たいことを言ってごめんね。本当は、また会いたかった。また話したかった。

でもわかってほしかったの。哲也が苦労して、やっと掴みかけてた仕事を、私のことで邪魔したくなかった。

看病に来てほしくなかった。泣いてほしくなかった。

哲也の写真、ずっと見てたよ。雑誌の表紙を、図書館の一番目立つコーナーに置いてもらったよ。

『この写真家、私の幼馴染なんですよ』って、お客さんに言えなかったのがちょっと残念だったけど。

日記の中に、眼鏡を入れておくね。

あの日、哲也が落として踏んでいったやつ。気づかずに帰るから、拾っておいたの。

ずっと机の引き出しにしまっておいた。捨てられなかった。

なんでかは、自分でもよくわからない。でも、哲也の手に戻してあげたかった。

ありがとう。ずっと幼馴染でいてくれて。 亜季」

手紙を読み終えて、俺は日記を開いた。

最初のページに、小さなビニール袋が挟まれていた。

中には、ひびの入ったレンズのついた、俺の眼鏡のフレームが入っていた。

あの日、砂利の上で踏んで割ったやつだ。

俺が気づかずに置いていったものを、彼女はずっと持っていてくれた。

日記はぱらぱらとめくるだけで、全部を読む気にはなれなかった。

でも一箇所、ページの角が折られているところがあって、そこだけ開いた。

「哲也の写真が、今日も図書館に並んでた。今日も私の声は届かなかったけど、それでいい」

それでいい、なんかじゃないだろう、と思った。

目の前が滲んだ。

亜季ちゃんに、言えなかったことが俺にも山ほどあった。ずっと気にしていた。ずっと思っていた。

俺が気づかなかっただけで、あの湖のそばに、いつもそこにいてくれていたのに。

今でも仕事で写真をプリントするとき、あの眼鏡のことを思い出す。

壊れたレンズ越しに、世界はどんな風に見えるんだろうか。

歪んで、にじんで、それでも光は通るんだろうか。

俺の撮る写真には、今もあの湖畔の朝の光が宿っている気がする。

霧の中で水面に溶けていく光。亜季ちゃんと二人で眺めた、あの光。

壊れた眼鏡を今も机の引き出しにしまってある。

捨てられない理由は、俺には最初からわかっていた。

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