
俺が旅先から戻ると、玄関に小さな段ボール箱が届いていた。
差出人の欄に「相川朋子」とあった。
相川。その苗字を見た瞬間、手が止まった。
亜季ちゃんのお母さんだ、と気づくのに、しばらくかかった。
※
俺と亜季ちゃんは、長野県の山奥にある湖畔の小さな町で育った。
秋になると朝霧が深く立ちこめ、湖の水面が白くかすんで消えてしまいそうな、そんな場所だ。
俺の実家の隣に、亜季ちゃんの家があった。
小学生の頃、毎朝登校前に二人で湖の岸辺まで歩いていった。
特に目的があったわけじゃない。ただ石を投げたり、水面に映る山の影を眺めたりするだけだったけど、毎朝そうしないと一日が始まらない気がしていた。
亜季ちゃんはいつも丸い眼鏡をかけていた。少し古風な、金色のフレームのやつだ。
「祖父のお下がりだよ」と彼女は照れくさそうに言った。
「なんでそんなの使ってるの」
「サイズが合ってるから」
「合ってないじゃん、ずり落ちてるじゃん」
「うるさい」と言って、彼女は鼻の上で眼鏡を直した。その仕草が好きで、俺はわざとそういうことを言っていた。
俺が写真を好きになったのも、あの湖がきっかけだった。
朝もやの中で光が水に溶ける瞬間を、何かに残したいと思った。父親のカメラを借りて、毎日シャッターを切った。
高校を出てから写真の専門学校に進み、卒業後はフリーのフォトグラファーとして各地を転々とする生活になった。
亜季ちゃんは地元に残り、図書館で司書として働いていた。
年に一、二度の電話でしか話さなくなってからも、彼女の声を聞くたびに、あの湖畔の朝のことを思い出した。
「また帰ってきたら話しかけてよ」と彼女はいつも言った。
「ちゃんと帰るよ」と俺はいつも答えた。
そのたびに彼女が「約束ね」と言うのが、俺は好きだった。
※
三十一歳の春、三年ぶりに地元に帰った。
亜季ちゃんに連絡して、あの湖のそばで待ち合わせた。
春先の湖は、まだ少し肌寒かった。
彼女はすこし痩せていた。頬がこけて見えたけれど、眼鏡は変わらず金色のフレームのままだった。
二人でベンチに座って、しばらく何も言わずに水面を見ていた。
「写真、続けてるの?」
「続けてる。先月、雑誌の表紙に使ってもらった」
「そっか」と彼女は静かに言った。「よかった」
少し間があった。風が吹いて、水面に小さな波が立った。
「ね、哲也」
「ん?」
「もう会いに来なくていいよ」
俺は言葉を失った。
「え。何で」
「哲也が頑張ってるじゃない。向こうで。地元のことなんか気にしなくていいよ。こっちはこっちで大丈夫だから」
笑顔で言うから、余計に意味がわからなかった。
「亜季ちゃん、何かあったの」
「何もないよ。ただ思っただけ」
「じゃあなんで急に」
「急じゃないよ。前から思ってた」
彼女は立ち上がった。「じゃあね」と言って、振り返らずに歩いていく背中を、俺はただ見ていた。ベンチから立ち上がれなかった。
帰り道、俺はまだその場所に立ったままでいた。
視線を落とすと、砂利の上に眼鏡のフレームが落ちていた。俺のものだった。さっき彼女の横に座ったとき、ポケットから落としたんだろう。
拾い上げようとしゃがんだ瞬間、踏んでしまった。
レンズにひびが入る音が、静かな湖畔によく聞こえた。
壊れた眼鏡を握りしめたまま、俺は駅へ向かった。
胸のどこかに、長い間大切にしていたものが、静かに崩れていく感覚があった。
それ以来、地元には帰らなかった。電話もしなかった。亜季ちゃんからも連絡は来なかった。
※
それから四年が経った。
俺は相変わらず、各地を旅しながら写真を撮り続けていた。
東北の漁港で夜明けを撮った。九州の山間で霧の中に立つ神社を撮った。北海道の牧草地で、地平線に沈む夕陽を撮った。
どこへ行っても、水面に光が溶ける瞬間を見るたびに、亜季ちゃんの顔を思い出した。
丸い眼鏡越しに俺を見る目。少し遠慮がちで、でも温かい目。
「もう来なくていいよ」という言葉を、何度反芻しても、腑に落ちなかった。理由がわからないことが、ずっと引っかかっていた。頭で考えれば考えるほど、あの日の亜季ちゃんの顔が遠くなる気がした。
新しいカメラを買っても、好きな写真が撮れても、どこかぽかんと穴が空いているような感じが続いていた。
その年の十月、亜季ちゃんのお母さんから電話がかかってきた。
「哲也くん。亜季が……先月、亡くなったの」
電話口で声が遠くなった。
「えっ」
「ずっと体が悪くてね。誰にも知らせたくないって言って、頑固な子だったから」
「……何の、病気だったんですか」
「膵臓。四年前に見つかってね」
俺は何も言えなかった。四年前。俺が最後に会ったのは、あの春だった。
「哲也くんに渡したいものがあって。亜季が持っていってほしいって。宅急便で送るから受け取ってくれる?」
それだけ言って、電話は終わった。俺はしばらく部屋の中に立ったまま、動けなかった。
膵臓。四年前に見つかって。
あの日の亜季ちゃんの顔が浮かんだ。少し痩せていた頬。眼鏡越しにこちらを見た目。
「もう会いに来なくていいよ」。
……知っていたんだ。
先に逝くことを、あの時もう、わかっていたんだ。
※
届いた段ボールの中には、一冊の日記帳と、小さな封筒が入っていた。
封筒には「哲也へ」とだけ書いてあった。
俺はしばらく、どちらも開けられなかった。
テーブルの上に置いたまま、窓の外の空をただ見ていた。雲が流れていくのを、どのくらい眺めていただろう。
それからゆっくり、封筒を開けた。
「哲也へ
あの日、湖のそばで冷たいことを言ってごめんね。本当は、また会いたかった。また話したかった。
でもわかってほしかったの。哲也が苦労して、やっと掴みかけてた仕事を、私のことで邪魔したくなかった。
看病に来てほしくなかった。泣いてほしくなかった。
哲也の写真、ずっと見てたよ。雑誌の表紙を、図書館の一番目立つコーナーに置いてもらったよ。
『この写真家、私の幼馴染なんですよ』って、お客さんに言えなかったのがちょっと残念だったけど。
日記の中に、眼鏡を入れておくね。
あの日、哲也が落として踏んでいったやつ。気づかずに帰るから、拾っておいたの。
ずっと机の引き出しにしまっておいた。捨てられなかった。
なんでかは、自分でもよくわからない。でも、哲也の手に戻してあげたかった。
ありがとう。ずっと幼馴染でいてくれて。 亜季」
手紙を読み終えて、俺は日記を開いた。
最初のページに、小さなビニール袋が挟まれていた。
中には、ひびの入ったレンズのついた、俺の眼鏡のフレームが入っていた。
あの日、砂利の上で踏んで割ったやつだ。
俺が気づかずに置いていったものを、彼女はずっと持っていてくれた。
日記はぱらぱらとめくるだけで、全部を読む気にはなれなかった。
でも一箇所、ページの角が折られているところがあって、そこだけ開いた。
「哲也の写真が、今日も図書館に並んでた。今日も私の声は届かなかったけど、それでいい」
それでいい、なんかじゃないだろう、と思った。
目の前が滲んだ。
亜季ちゃんに、言えなかったことが俺にも山ほどあった。ずっと気にしていた。ずっと思っていた。
俺が気づかなかっただけで、あの湖のそばに、いつもそこにいてくれていたのに。
※
今でも仕事で写真をプリントするとき、あの眼鏡のことを思い出す。
壊れたレンズ越しに、世界はどんな風に見えるんだろうか。
歪んで、にじんで、それでも光は通るんだろうか。
俺の撮る写真には、今もあの湖畔の朝の光が宿っている気がする。
霧の中で水面に溶けていく光。亜季ちゃんと二人で眺めた、あの光。
壊れた眼鏡を今も机の引き出しにしまってある。
捨てられない理由は、俺には最初からわかっていた。