沖縄、戦時の地に息をひそめる少年がいました。
12歳の叔父さんは、自然の力を借りた壕で日々を過ごしていたのです。
住民たちや、運命に翻弄された負傷兵たちと共に。
しかし、彼らの安息は長くは続かず、米軍の探知によって隠れ家が露見してしまったようでした。
「ハヤクデテキナサーイ」という呼びかけが、マイクを通じて外から響いてきました。
恐怖が支配する中で、彼らに残された選択肢は少なかった。
住民たちは、敵味方の区別なく猛威を振るう攻撃に身を任せる他ありませんでした。
死の淵に立たされた彼らの中で、一筋の希望が囁かれ始めました。
「せめて、最後に太陽をこの目で見ておきたい」と。
その言葉に共感する声が、壕の中に満ちていきました。
「どうせやられるなら、そうしたい」という思いが強まる中で、日本軍の兵士は沈黙を守っていました。
なぜなら、彼らは過酷な状況の中でも住民たちに優しさを見せ、信頼の絆を結んでいたのです。
壕の中で、病床に伏す若い将校は、少年である叔父さんに漢詩を教えてくれていました。
彼が「しっかりしんでこい!」という言葉で笑顔で敬礼を送ると、少年は決意を新たにして敬礼で応えたのでした。
そして、外の世界へと歩を進めた時、彼らは運命の選択をしました。
外に集められた住民たちは、壕から遠く離れるよう指示されました。
そして、米兵たちが壕に火を放ち、残された命を消し去ったのです。
生き残った叔父さんは、時折涙することがあります。
生き延びたことへの後悔を、酒の力を借りて口にするのです。
※
戦後、長い年月が経った後も、その将校のことを叔父さんは忘れることができませんでした。
多くの軍人が沖縄県民を見下していた時代に、彼は違った態度を見せてくれたのです。
彼は乏しい食料の中でも、子供や妊婦に優先的に分け与えるよう指示していました。
そして、自分は硬くて食べられない実をかじりながら、「やけに硬いな」と笑顔を見せたのでした。
部下が弱音を吐けば、「沖縄の民を守らねばならん」と励まし続けた。
その将校の存在があったからこそ、周囲は恐怖に飲み込まれずに済んだのです。
遺族を訪ねた叔父は、長い捜索の末、ようやく彼らと対面することができました。
そして、将校の話を聞いた遺族は、「実に親父らしい」と言いながら涙と共に微笑んだのです。