このお話は8年程前、九州の西日本新聞に掲載され、映画化もされました。
ご存知の方も多いはずです。特繰出身の学徒兵の方々のお話です。
当時東京に居た私は、銀座の東映に軽い気持ちで観に行ったのですが、そこには数多くの老紳士が居りました。
突入シーン後、エンドロールで私の横に座っていた一組の老夫婦のおじいさんが突然起立して、臆面も無く拍手し始めたのには驚きました。
例に漏れず、当時21歳だった私は、一緒に拍手することが出来ませんでした。
※
特攻と言えば、大東亜戦争に於いては、約4千人のパイロットが若い命を散らしました。
その一つの実話を紹介します。
※
既に米軍が沖縄に侵攻していた昭和20年5月のある日。
二人の童顔の陸軍将校が、佐賀県の鳥栖小学校を突然訪ねて来た。
上野歌子先生が応対すると、二人は言った。
「自分たちは上野音楽学校(現・芸術大)ピアノ科出身の学徒出身兵です。
明日、特攻出撃することになりましたが、学校を出て今日まで、演奏会でピアノを弾く機会がありませんでした。
もちろん祖国のために命を捧げることは本懐ですが、今生の思い出に、思い切りピアノを弾いて、二人だけの演奏会をやりたいのです。
今日は目達原の基地から、あちらこちらとピアノを求め歩いて、やっとこの小学校に辿り着きました。
どうぞお願いいたします」
上野先生の胸中には、灼きつく熱いものが込み上げて来た。
「どうぞ兵隊さん、時間のある限り弾いて下さい。私もここで聴かせていただきます」
静かな放課後の音楽教室で、二人の少尉は、代わる代わるピアノに向ってベートーベンの『月光』などの曲を奏でた。
その一時間程の間に、どこから聞きつけたのか二十人程の学童達がいつの間にか集って来て、一緒にピアノの演奏に耳を傾けた。
やがて帰隊の時刻も迫って来た時、上野先生は二人に向かって言った。
「有難うございました。こんなに素晴らしいピアノを、何年ぶりかで聴かせていただきました。
この子供達も、あなた方のお姿と一緒に、永遠に今日のピアノ演奏を忘れることはないでしょう。
明日は愈々ご出発とのことですが、心からご武運を祈らせていただきます。
お別れにこの子供達と『海行かば』を合唱させていただきます」
教室一杯に静かに『海行かば』が流れた。
送られる二人の少尉もいつしか声を合わせて一緒に合唱していた。
※
帰り際、二人の少尉は
「この戦争はいつかは終わります。しかし今、自分達が死ななければ、この国を君たちに残すことはできません」
と言って、子供たちの頭を撫で、満足の微笑みをたたえながら去って行った。
※
翌日の午前、鳥栖小学校の上空に一機の飛行機が現われ、二度、三度と翼を大きく振りながら南の空へ飛び去って行ったという。
この時のピアノは今も、鳥栖小学校に保存されているそうだ。