戦後間もない頃、日本人の女子学生であるA子さんがアメリカのニューヨークに留学しました。
戦争直後、日本が負けたばかりの頃のことです。人種差別や虐めにも遭いました。
A子さんは、とうとう栄養失調になってしまいました。
体にも異変を感じて病院へ行ったところ、重傷の肺結核だと告げられました。
当時、肺結核は死の病と言われていました。
思い余って、医者にどうしたら良いか聞いたところ、
「モンロビアに行きなさい。そこには素晴らしい設備を持ったサナトリウム(療養所)があるから」
とアドバイスを戴きました。
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飛行機がまだ発達していない時代のことです。
ロサンゼルス近郊のモンロビアは、ニューヨークから特急列車で5日間もかかる距離です。
汽車賃さえない彼女は、恥ずかしい思いをして知人や留学生仲間に頼み込み、カンパしてもらって汽車賃を集めました。
しかし食料までは手が回らず、3日分を集めるのがやっとでした。
治療費は、日本に居る両親が、
「家や田畑を売り払っても何とかするから」
という言葉を証明書代わりに、列車に乗り込んだA子さんです。
列車では発熱と嘔吐が続き、満足に食事もできませんでした。
それでも3日目には、とうとう食料が尽きてしまいました。
A子さんは、なけなしの最後に残ったお金を取り出し、車掌にジュースを頼みました。
ジュースを持って来た車掌は彼女の顔を覗き込み、
「あなたは重病ですね」
と言いました。
彼女は、
「結核に罹ってしまい、モンロビアまで行く途中です。
そこまで行けば、もしかしたら助かるかもしれません」
と正直に話しました。
車掌は、
「ジュースを飲んで元気になりなさい。きっと助かります」
と、優しい言葉をかけてくれました。
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翌朝、A子さんのところへ車掌が来て、
「これは私からのプレゼントだ。飲んで食べて、早く元気になりなさい」
と言い、ジュースとサンドイッチを持って来てくれました。
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4日目の夕方、突然車内に放送が流れました。
「乗客の皆さま。この列車には、日本人の女子留学生が乗っています。彼女は重病です。
ワシントンの鉄道省に電報を打ち、検討してもらった結果、この列車をモンロビアで臨時停車させることになりました。
朝一番に停まるのは、終着駅のロサンゼルスではありません」
これは、現在で言えば新幹線を臨時停車させるほど大変なことです。
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次の日の夜明け前、列車はモンロビアに臨時停車しました。
A子さんは他の乗客に気付かれないように、静かに駅に降り立ちました。
するとそこには、車椅子を持った看護師さんが数人待機していてくれたのです。
車椅子に乗せてもらうと、列車がざわざわしているので、A子さんは振り返って見て驚きました。
全ての列車の窓という窓が開き、アメリカ人の乗客が身を乗り出して口々に何か言っています。
最初は、日本人である自分に何か嫌なことを言っているのかと思いました。
しかし、そうではありません。
名刺や、住所や電話番号を書いた紙切れなどにドル紙幣を挟んだものが、まるで紙吹雪のように飛んで来るのです。
「きっと助かるから、安心しなさい」
「人の声が聞きたくなったら、私のところに電話をかけてきなさい」
「手紙を書きなさい。寂しかったら、いつでもいいよ」
そう口々に声をかけてくれました。
ほんの5メートル先に停まっているだけの列車が、涙で見えなくなりました。
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A子さんはその後、3年間入院しました。
入院中の間、毎週のように見知らぬアメリカ人が見舞いに来てくれました。
全てあの列車の乗客でした。
3年間の膨大な手術費と治療費を支払い、A子さんは退院しようとして驚きました。
匿名で治療費の全額が払われていたのです。
これも、列車の乗客の中の一人だったのです。