サイトアイコン 泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

完成しなかったマフラー

本を読む男性

冬の朝、妻が残した毛糸の袋を、三年越しに開けた。

中から出てきたのは、途中で止まったままの白いマフラーだった。

棒針に糸が巻かれたまま、あの日から時間が止まっているような形をしていた。

俺の名前は保坂慎二。四十六歳。ピアノの調律師をしている。

東北の小さな町で、三十年近く鍵盤の音を整えながら生きてきた。

仕事は地味だ。

依頼が入れば車で出かけ、道具箱を抱えて玄関先に立つ。ピアノのふたを開け、全部の鍵盤を一音ずつ叩く。狂いを確かめて、弦の張りを調整して、また叩く。

正しい音になっていくのを耳で追いながら、俺はいつも思う。

人間が作ったものは、ほっておくと必ず狂っていく、と。

妻の美和を亡くしたのは、三年前の一月だった。

胃がんだった。

発見されてから半年も経たないうちに逝ってしまった。

発見された時点で、すでにステージ四だった。本人には告知されていた。だが美和は、俺には一言も言わなかった。

最後の最後まで、普通に笑っていた。

台所で鍋をかき混ぜながら振り向いて、「冷えてるね、今日も」と言っていた。そのたびに俺は「そうだな」と短く返して、仕事の支度を続けていた。

俺はずっと気がつかなかった。

体が少しずつ細くなっているのに、気がつかなかった。食卓に座る時間が短くなっているのに、気がつかなかった。彼女が時々、天井のどこかを見ているような遠い目をしていても、気がつかなかった。

秋の終わりに、美和は病院に担ぎ込まれた。

それで初めて、俺は全部を知った。

病室で美和はすまなそうに笑って、「心配かけたくなかったから」と言った。

俺は何も言えなかった。怒る気にも、泣く気にもなれなかった。ただ、その手を握っていた。

美和の手は以前より細くて、握るのが怖かった。それでも離せなかった。

美和が死んだのは、それから六週間後の早朝だった。

妻が逝った後、俺は仕事だけで生きていた。

ピアノを調律する。依頼があれば出かけ、道具を並べ、鍵盤を叩き、弦の張りを確かめる。ひとつひとつ音を整えて、最後に通して弾いてみる。正しい音が出るようになったら、仕事は終わりだ。

仕事だけが、俺をどこかに繋ぎとめていた。

部屋の中は、美和が逝った日のままにしていた。食器棚の配置も、窓際に飾った小さな植木鉢も。彼女のコートも、洗面台の鏡の前に立てかけた小さな手鏡も、そのままにしていた。

植木鉢の草は、一ヶ月ほどで枯れた。

それでも水をやり続けていた。なんとなく、やめられなかった。

ただ、押し入れの棚の上に置かれた紙袋だけは、触れなかった。美和が入院する少し前から毎晩編んでいたものが、そこに入っているはずだった。

毎晩、居間のソファに座って、何かを編んでいた。

俺が「何を作ってるんだ」と聞くと、「内緒」と言って笑った。「あなたへのプレゼント。冬までに完成させるから待ってて」と。

冬が来るより先に、美和はいなくなってしまった。

だから俺は、その袋を開けることができなかった。完成しなかったものを見たくなかった。見てしまったら、何かが崩れてしまう気がした。

三年が過ぎた冬の朝、ふとした拍子に、袋を手に取っていた。

調律の仕事が少ない季節で、朝から何もすることがなかった。窓の外は薄い雪が積もっていて、町全体が静かだった。

気がつけば床に座り込んで、中を見ていた。

白い毛糸。棒針。途中まで編まれた、マフラーの形をしたもの。

まだ半分にも届かない長さだった。

俺はしばらく、それをただ眺めていた。手触りを確かめた。柔らかかった。美和の手の温度が残っているような気がして、慌てて袋に戻した。

袋の底に、小さなノートが入っていた。

メモ帳ほどの大きさの、くたびれたノート。表紙に「しんちゃんへ」と書かれていた。俺のことだった。美和だけが俺をそう呼んでいた。社会人になっても、おじさんになっても、彼女だけはずっとそう呼んでいた。

開くのをためらった。しばらく膝の上に乗せて、ただ見ていた。

それでも最後には、手が動いていた。

最初のページに日付があった。病院に入院した日の一週間前だった。

「先生から話を聞いた。長くて半年と言われた。しんちゃんに言おうかどうか、一晩考えた。でも言えなかった。言ったら、しんちゃんがどんな顔をするか分かるから。あの人は不器用だから、心配したら仕事にならなくなる。だから言わないことにした。ごめんなさい。」

俺は手が止まった。

次のページも読んだ。また次も読んだ。

美和は几帳面な字で、毎日のように短い言葉を書きつけていた。体の具合のこと。俺が仕事から帰ってきた時の様子。台所で作ったものの記録。夜中に一人で眺めた月のこと。

「今日はしんちゃんの好きなシチューを作った。食べた後、テレビを見ながら眠っていた。そういうところが好きだ。」

「今日は少し歩いただけで疲れてしまった。気づかれないようにした。」

「調律に出かけていく後ろ姿を見ていた。あの人は歩き方まで真面目だ。」

そして途中から、マフラーの記録が増えていった。

「今日は五センチ編めた。しんちゃんのために、できるだけ急いでいる。首が冷えやすい人だから、長めに編もうと思っている。白にしたのは、どんな服にも合うように。」

「今日は少ししか編めなかった。指先が震えるようになってきた。でも諦めない。絶対に完成させる。」

「今日は三センチ。完成したら、冬に渡したい。しんちゃんが巻いてくれたら嬉しい。」

「今日は編めなかった。明日また頑張る。」

その翌日のページから、日付が途絶えていた。

そして最後のページには、ただ一行だけ書かれていた。

「ごめんなさい、完成しなかった。でも好きだよ。ずっと好きだよ。」

俺はそこで、止まった。

三年間、泣けなかったのに。葬儀でも、遺品の整理でも、一人で過ごした夜も。どこかに締め込んだまま、出てこなかったものが。その一行を読んで、全部出てきた。

しばらくの間、俺は床にうずくまって泣いた。

窓の外で、雪がやんでいた。

翌週、俺は図書館に行って、棒針編みの入門書を借りた。

家に帰って読んでみると、思ったより難しかった。動画も見た。何度やっても糸がよじれて、うまく針が通らない。指がいうことをきかなかった。

ピアノの調律師のくせに、手先が器用ではないのかもしれない。

それでも毎晩、少しずつ練習した。

美和が途中で止めたところから続けようと思っていたが、最初は自分の練習用の糸で別に編み始めた。それがある程度できるようになってから、白い毛糸に触った。

美和の棒針を、そっと拾い上げた。

彼女が途中まで編んだところの続きを、自分の手で編み始めた。

うまく繋がるかどうか分からなかった。目の大きさが違うかもしれない。でもそれでいいと思った。美和の部分と俺の部分がある、そういうマフラーでいいと思った。

二週間かかって、マフラーを完成させた。

端の始末が少し雑で、長さも均一ではなかったが、一本のマフラーになった。白い毛糸が、二人の手でひとつに繋がっていた。

雪の降る朝、俺はそれを首に巻いて、墓に行った。

墓地は町の外れにあって、歩いて三十分ほどかかる。雪の中を歩いた。足元が冷えた。でも首だけは、温かかった。

手を合わせながら、何を言ったらいいか分からなかった。

ありがとうと言えばいいのか。ごめんと言えばいいのか。

結局、「遅くなってごめん」と、ただそれだけ言った。

帰り道、小さく声を出して泣いた。誰もいない雪道で、情けないくらい泣いた。

でも泣き終わった後、不思議と腹が減った。

近くの食堂に寄って、定食を頼んだ。久しぶりにちゃんとした飯を食べた気がした。

春になって、一人の女の子が調律を頼んできた。

祖父が遺したという古いアップライトピアノを、一度しっかり整えたいと言っていた。電話口でたどたどしく話す声が、中学生くらいに聞こえた。

家に着くと、小さな茶の間にピアノが置いてあった。年季は入っているが、丁寧に使われてきた様子だった。

鍵盤を押しながら、弦の音を確かめた。長く弾かれていなかったが、芯のある音がした。

一音ずつ整えていくと、だんだん正しい音が出るようになってきた。こういう瞬間が、この仕事で一番好きだと俺は思う。狂っていたものが、正しくなっていく。

作業を終えると、女の子が一曲弾いてくれた。たどたどしいが、温かい音だった。

「おじいちゃんが弾いてた曲です」と彼女は言った。

俺はすこし離れたところに立って聴いていた。

首には、白いマフラーがあった。

窓の外、雪がまだ少し残っていた。でも軒先からは、かすかに水がしたたり始めていた。

もう少しだけ、生きていこうと思った。

モバイルバージョンを終了