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枯れない花束

花束

商店街の外れにある花屋を畳んだのは、去年の秋のことだ。

親父が四十年続けた店を、俺が継いで十五年。合わせて五十五年。商店街の半分がシャッターを下ろし、駅前に大型スーパーができ、花を買う客は年々減っていった。最後の一年は、売上より光熱費のほうが高い月もあった。

閉店を決めた日、俺は誰にも言わずにシャッターを下ろした。「長い間ありがとうございました」の張り紙すら出さなかった。そういうのは、親父の性分に合わない気がしたからだ。黙って始めて、黙って終わる。それが親父のやり方だった。

片付けは一人でやった。

冷蔵ケースの電源を落とすと、低い唸りが止まって、店が急に静かになった。四十年ぶりの静寂かもしれない。花台を分解し、壁に掛かったままの親父の写真を外した。黄ばんだ額縁の中で、親父が若い頃のエプロン姿で笑っていた。親父が使っていた剪定バサミも、まだ引き出しに入っていた。錆びてはいなかった。

バックヤードの棚を一段ずつ空にしていく。リボン、ラッピング用紙、花瓶の予備。どれも何年も使っていないものばかりだ。一番奥の棚を動かした時、棚と壁の隙間から茶封筒が床に落ちた。

埃をかぶった封筒を開けると、写真が一枚。

店先で花束を持って笑っている女の横顔だった。バケツに突っ込まれたガーベラやカスミソウが背景に写っている。光の加減からして、夕方だろう。女の頬がオレンジ色に染まっていた。少し髪が風に流れて、笑った拍子に目尻に皺が寄っている。

見覚えがあった。というより、忘れられるわけがなかった。

彩香だった。

大倉彩香。大学時代の恋人だった。

出会ったのは、文学部の図書室だった。彩香は窓際の席でいつも分厚い本を読んでいて、俺はその二つ隣に座っていた。最初に話しかけたのは彩香のほうだった。「あなた、いつも花の匂いがする」。バイト先の花屋から直接来ていたから、当然だった。でも、それを最初の言葉に選ぶのが彩香らしかった。

付き合い始めてからの三年間は、今思えば季節がずっと春だった気がする。彩香はよく店に来て、売れ残った花をもらって帰った。「お花って、売れ残ったらどうなるの?」と聞かれて、「捨てる」と答えたら、彩香は黙って花を抱きしめた。それから毎週金曜の閉店後に、売れ残った花を持って帰るようになった。六畳のアパートが花だらけになっている写真を、メールで送ってきたこともあった。

別れたのは、卒業の年の冬だった。

理由は俺にあった。親父が体を壊し、店を継ぐことを決めた。大学院に進んで研究者になるつもりだった彩香に、商店街の花屋の嫁になれとは言えなかった。彩香の将来と、錆びかけた商店街。天秤にかけるまでもなかった。

だから、嘘をついた。

「他に好きな人ができた」

彩香は何も言わなかった。五秒くらい俺の顔を見つめて、それから一度だけ頷いて、背中を向けた。追いかけなかった。追いかけたら、本当のことを言ってしまいそうだったから。

あの冬の日、彩香が着ていたベージュのコートの背中が、今も目に焼きついている。一度も振り返らなかった。

写真の裏を見ると、丸い字で日付が書いてあった。

「2004年6月18日」

別れる半年前の写真だった。この頃はまだ、何も壊れていなかった。夏の入り口で、風がぬるくて、花が一番よく売れる季節だった。

それにしても、この写真がなぜバックヤードの棚の裏にあるのだろう。俺が撮った覚えはない。彩香のことは、写真もメールもすべて消した。未練を残さないために、携帯のデータもアドレス帳も全部消した。

写真の端に、もう一行書いてあった。

「この店が好きでした。——彩香」

手が止まった。

翌週、商店街の町内会長の斉藤さんに会った。八十近い斉藤さんは、親父の代からの付き合いで、商店街のことなら何でも知っている人だった。

何気なく聞いた。「うちの店に、昔よく来てた女の人って、覚えてますか。大学生くらいの」

斉藤さんは少し考えて、ああ、と頷いた。

「お前が店を継いだばかりの頃だろう。綺麗な子が時々来てたな。花は買わずに、店の前を通るだけの日もあったよ」

「……店の前を?」

「ああ。お前が奥に引っ込んでる時にな、じっと店先を見てたよ。二年くらい続いたかな。そのうち来なくなったけど」

俺は声が出なかった。缶コーヒーを持つ手が、少し震えていた。

二年。別れてから、二年も通っていたのか。俺は店の中にいて、彩香は外から花越しに中を見ていた。ガラス一枚の距離で、ずっとすれ違っていた。花の向こう側に、彩香がいた。俺はそれを知らなかった。

斉藤さんはもう一つ言った。

「あの子、一度だけ花を買っていったことがあるよ。お前が配達で出てる時だったな。おれが『何の花がいい?』って聞いたら、『ガーベラを一本だけ』って。それだけ買って、帰っていった」

ガーベラの花言葉は「希望」だ。花屋の息子なら知っている。彩香も、知っていたのだろうか。

写真をもう一度見た。

彩香が持っている花束は、ガーベラとカスミソウ。カスミソウの花言葉は「感謝」。希望と感謝。あの頃の彩香が選んだ花は、そういう花だった。

写真の裏の「この店が好きでした」の「でした」が、過去形であることに、今さら気づいた。

彩香はあの写真を、いつ棚の裏に置いたのだろう。二年間通い続けた末に、最後の日にそっと店に入り、俺が気づかない場所にそれを忍ばせて、去ったのだろうか。

そうだとしたら、あの写真は手紙だった。声に出せなかった言葉を、一枚の写真に託した手紙。二十年間、棚の裏の暗闇の中で、俺に届くのをじっと待っていた手紙。

夜、自分のアパートで缶ビールを開けた。外では秋の虫が鳴いていた。

テーブルの上に、あの写真を立てかけた。

写真の中の彩香は二十二歳で、花束を持って笑っている。夕陽の中で頬がオレンジ色に染まっていて、少し眩しそうに目を細めている。あの頃の俺は、彩香を守るために嘘をついたつもりだった。でも本当は、自分が傷つくのが怖かっただけかもしれない。商店街の花屋という選択が正しかったのか、自信がなかった。彩香にそれを見透かされるのが怖かった。

だから嘘をついた。好きな人ができた、と。

彩香は五秒間、俺の目を見た。あの五秒間で、彩香は嘘を見抜いていたのだと思う。それでも何も言わなかったのは、俺の不器用な選択を、受け入れてくれたのだろう。怒ってくれたほうが楽だったのに、彩香は怒らなかった。ただ頷いて、去っていった。

写真の裏の丸い字を、指でなぞった。

「この店が好きでした」

店が好きだったのか。店にいる俺が好きだったのか。たぶん、両方だったのだろう。

商店街の花屋は、もうない。

シャッターには「テナント募集」の紙が貼ってある。来月にはリフォーム業者が入り、この場所はコインランドリーか何かになるらしい。親父が毎朝水を撒いていたコンクリートの床も、もうすぐ剥がされる。花の匂いも、冷蔵ケースの低い唸りも、もう二度と戻らない。

でも、あの棚の裏に二十年間眠っていた写真は、今も俺の財布の中にある。

彩香が今どこで何をしているか、俺は知らない。探そうとも思わない。あの写真が届いたことを、彩香は知らないままでいい。

ただ、もし今の俺が二十二歳の俺に一つだけ言えるなら、こう言いたい。

嘘をつくな。好きな人の前では、正直でいろ。不器用でも構わない。枯れた花は戻らないが、正直な言葉は枯れない。

それだけで、花は枯れずに済んだかもしれない。

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