
私の前の上司、課長は無口で無表情な人でした。
雑談には加わらず、お酒も飲まない。人付き合いを避ける、どこまでも堅物な方でした。
そのぶん、誠実で公平。どんな場面でも冷静に対処する姿に、部下としては大きな信頼を寄せていました。
ただ、やっぱりどこか近寄りがたい存在で、心の距離はなかなか縮まりませんでした。
※
そんな課長の机には、いつも一枚の写真が飾られていました。
奥さんと、子どもが四人。
みんなで並んで写った家族写真。
無表情な課長に似合わず、あたたかな雰囲気に包まれた一枚でした。
「あの朴念仁でも、家族のことはちゃんと愛してるんだな」
そんな風に、ほほえましく思っていたのをよく覚えています。
※
あるとき、ふと気づいたんです。
何年も経っているのに、その写真が一向に変わらないことに。
気になって理由を尋ねると、課長はほんの少し照れたように笑って言いました。
「一番かわいかった頃の写真だからね」
それが、私が見た最初で最後の、課長の笑顔でした。
※
そんな課長が、ある日突然、無断で欠勤しました。
一日だけならまだしも、二日、三日と続きました。
無遅刻無欠勤が入社以来の誇りだった課長が、何の連絡もなしに休むなど、考えられないことでした。
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不安になった部長が、課長のマンションを訪ねました。
管理人さんに頼んでドアを開けてもらうと――
課長は、玄関で静かに倒れていました。
すでに、冷たくなっていたそうです。
急性心不全でした。
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あまりにも突然の別れに、会社中が悲しみに包まれました。
家族に連絡を取ろうとしましたが、誰も出ない。
親族の情報も、なぜか見つからない。
管理人さんに尋ねると、返ってきたのは思いがけない言葉でした。
「○○さんには、家族はいないはずですよ」
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人事部があわてて履歴を調べ直しました。
課長は十年前、中途で入社した方でした。
記録を確認してみると――
やはり、家族の記載は一切ありませんでした。
あの写真に写っていた家族は、すでにいなかったのです。
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きっと、課長は会社に来る前に、家族を失っていたのでしょう。
それでも、写真を見ながら過ごす日々が、かつての幸せを思い出させてくれたのかもしれません。
誰にも語らず、そっと胸に抱きしめるように。
※
葬儀には、家族も親族も、誰一人として顔を出しませんでした。
血のつながった人たちの冷たさに、私は言葉を失いました。
※
数日後、私は課長のお墓を訪ねました。
そこには、思いのほか立派なお墓が建っていました。
「きっと、やっと家族と和解できたんだ」
そう思い、少しだけ心が救われたような気がしました。
でも――
墓石を見た私は、愕然としました。
古びた墓誌に刻まれていたのは、課長と同じ名字の家族たちの名前。
その全員が、十数年前の“同じ日”に亡くなっていたのです。
※
家族を一度に失った日から、課長はずっと、たった一人で生きてきたのでした。
毎日、あの写真に向かって、どんな想いを抱いていたのでしょうか。
話し相手もなく、誰にも寄りかかることなく、黙々と生きるその背中に、どれだけの孤独があったのでしょうか。
※
無口で、近寄りがたくて、決して自分を語ろうとしなかったあの人の姿が、何度も胸に浮かびます。
無言のまま私たちを導いてくれたあの人は、本当は、何を抱えていたんだろう。
答えは、もう知ることができません。
※
でも私は、あの写真に残る家族の笑顔と、課長のあの一瞬の笑顔を忘れません。
たとえ二度と会えなくても、私たちは課長の誠実さと、優しさを心に刻んでいます。
どうか、今は家族と共に、安らかに眠っていてください。
本当に、ありがとうございました。