
昔、我が家では一匹の犬を飼っていた。
名前はナオ。
ナオは、ご近所の家で生まれた子犬だった。
その子犬を、うちの妹が、誰にも相談せずに勝手に連れて帰ってきたのが始まりだった。
当時、妹は中学生。
俺は高校を卒業して働き始めたばかり。
父はタクシーの運転手で、母は飲み屋でホステスとして働いていた。
生活に余裕などなかった俺たちは、突然やってきたナオの存在を“余計な厄介者”としてしか見ていなかった。
「こんな家で犬なんて飼えるわけがない」
そうやって口々に否定し、妹の行動を責めた。
それでも妹は、一人でナオの面倒を見続けた。
学校から帰ると、真っ先にナオの世話。
家族と距離のあった彼女にとって、ナオは心の拠りどころだったのだと思う。
そんな日々が、一年続いた。
※
ある寒い冬の夜のことだった。
免許を取ったばかりの俺が、初めて買った車で帰ってくると、ナオが尻尾を振りながら駆け寄ってきた。
「クゥン、クゥン」
車の横にぴたりと身を寄せて、ナオは小さく鳴いていた。
もう子犬ではなかった。
毛並みも良く、見違えるほど立派な柴犬に育っていた。
ふと見上げると、二階の窓から妹が顔を覗かせていた。
どこか申し訳なさそうな表情で、俺の様子を見つめている。
やがて妹は、静かに階段を下りてきた。
そして、ぽつりと呟いた。
「お兄ちゃん…ナオ、寒そうで…かわいそう…」
その日、親父も母も仕事で家にはいなかった。
俺は何か心を動かされるものを感じて、ベニヤ板を集めて小さな犬小屋を作ってやった。
すると、妹がどこからか汽船の毛布を持ってきて、小屋の中に丁寧に敷いた。
ナオは、まるで嬉しそうに笑っているかのように小屋に入り、妹はその背中を優しくブラシで撫でていた。
その姿を見て、俺はようやく気づいた。
妹とナオの間には、言葉にできない深い絆があったのだと。
※
その日を境に、我が家は少しずつ変わっていった。
あんなに犬嫌いだった親父も、いつしかナオを可愛がるようになり、休日には散歩に連れて行くようになった。
母は出勤前にナオのご飯を用意する係。
散歩はその時その時で、手の空いている誰かが担当する。
そんなふうに自然と役割が分担され、ナオはいつしか家族の中心にいた。
やがて親父の抱えていた借金も返済が終わり、家の中はますます明るくなった。
とはいえ、日々は平穏ばかりではなかった。
夫婦げんかもした。
兄妹げんかもした。
妹の受験も、俺の転職も、母の涙も――
そのすべてに、ナオは何も言わずそばにいてくれた。
ナオがいるだけで、俺たちは笑顔になれた。
※
やがて妹は結婚し、遠くの街に嫁いでいった。
ナオはその日、寂しそうに空に向かって遠吠えをした。
数年後、父がこの世を去ったときも、ナオは同じように空を見上げ、寂しげに吠えた。
母も再婚して街に出ていったとき、ナオはまた一人、静かに遠吠えをした。
気づけば、家に残ったのは俺とナオだけだった。
まさか俺がナオとこんなにも仲良くなるとは思ってもいなかった。
ナオが最初に家に来たとき、あんなに嫌がっていたのにな。
今となっては、自分でも信じられない。
なあ、ナオ。
あれから十七年が経った。
去年の夏、ナオは静かに息を引き取った。
もう立ち上がることも、吠えることもなく、穏やかな顔で眠るように逝った。
今、俺は仏壇にナオと親父の位牌を並べている。
家族がバラバラになりそうだったあの時代、ナオがいてくれたから、俺たちは一つになれた。
ありがとう、ナオ。
俺たちの家族になってくれて、本当にありがとう。