
家には、十年ものあいだ一緒に暮らしていた猫がいた。
名前は「ミル」。白地に淡い灰色の柄が入った、シャム猫とどこかの雑種のような子だった。
その出会いは、広場の隅に停められた古い車の中。まだ子猫だったミルは、そこで眠っていた。
ある日、俺と姉ちゃんはその子を見つけて、どうしても放っておけず、家の庭まで連れ帰ってしまった。
餌をやりながら世話をするうちに、すっかり家族のような存在になった。
ただ――唯一の問題があった。
父親は、極度の猫嫌いだったのだ。
※
庭でミルに餌をやっている俺たちを見つけるたび、父は怒鳴り声をあげていた。
だからこそ、母親がミルを家の中で飼うことを許してくれたときは、驚いた。
のちに聞いたところによると、母も実は動物好きで、陰でこっそりとミルに餌をあげていたらしい。
俺と姉ちゃんは、自然と「ミル」と名前をつけた。
でも、父親は一度としてその名を口にしなかった。
近づいてくれば追い払おうとするし、目すら合わせない。ミルに対してだけ、まるで見えない壁を作っているようだった。
※
そんなある日、休日の朝のことだった。
父の部屋から、寝起きの低い声が聞こえてきた。
「こいつ、いつのまに寝てたんだ…」
部屋を覗くと、父の腹の上に、ミルが気持ちよさそうに丸くなっていた。
思わず吹き出した俺と姉ちゃんは、「お父さん、動けないじゃん! ミルの復讐かもね(笑)」とからかう。
けれど父は、いつものような仏頂面のまま、「…一体いつまで寝るんか。暑いったいね」と小さくつぶやいた。
それは、どこか呆れたようで、嬉しそうで――微かに笑みがにじむ顔だった。
※
それから、父のミルへの態度は少しずつ変わっていった。
ただ不思議だったのは、いつも餌をやったり遊んだりしていた俺や姉ちゃんよりも、ミルはなぜか父を一番に慕ったことだ。
昼寝は必ず父の部屋の座布団の上。夜になると、屋根裏部屋の急な階段をよじ登り、父のベッドで眠るのが日課となっていた。
家族はみな「なんであんな臭い部屋に行くの」と笑ったが、それでもミルは必ず父のもとへ行った。
父も、もう追い払うことはなかった。避けることもなかった。
けれど――やはり、ミルの名を呼ぶことはなかった。
※
年月は流れ、俺は高校三年に、姉ちゃんは社会人になった。
ミルは相変わらず元気で、病気ひとつせず暮らしていた。
一度だけ猫風邪をひいたことがあったが、すぐに回復して以来、特に大きな問題もなかった。
しかし、再び風邪のような症状を見せたミルは、今度はなかなか良くならなかった。
最初は大したことないと家族で話していた。
でも、一週間が過ぎても、二週間が過ぎても、ミルの様子は改善せず、鼻水も止まらなかった。
階段を登るのも、見るからに辛そうだった。
獣医さんに検査をしてもらうことになった。
※
検査結果が出たその日、俺は学校だった。
夕方、玄関を開けて「ただいまー」と声をかけると、母が真っ赤な目で椅子に座っていた。
その姿を見た瞬間、全てを悟った。
「ミル、どうだったの…?」
母は静かに言った。
「だめなんだって…白血病、なんだって…」
理解が追いつかず、涙が溢れた。
どうして。風邪じゃなかったのか。治るって信じていたのに――。
※
その夜の食卓は静まり返っていた。
父が帰ってきて、ビールを取り出す。
ミルのことを気にしているのは明らかだったが、なかなか口には出さなかった。
母がぽつりと「ミルね、もう治らないんだって…」と伝えると、父は驚いたように目を見開いた。
そして、悲しげな表情を一瞬だけ浮かべると、すぐにいつもの顔に戻って、「そうか…治らんはずだよな…」とだけつぶやき、ビールをぐっと飲んだ。
それだけだった。
けれど、父なりの悲しみの深さは、伝わってきた。
※
病気の発覚から一ヶ月、ミルはほとんど動けなくなった。
それでも餌を食べ、トイレに行こうとし、必死に生きていた。
父の部屋の座布団で静かに横たわるミルの姿を見るたび、俺も姉ちゃんも涙が込み上げた。
誰よりも先にミルに声をかけ、頭を撫でた。
※
その夜は、家族が揃ってテレビを見ていた。
突然、廊下から「ゴン」という音が響いた。
慌てて駆けつけると、そこには、ふらつきながらもトイレへ向かおうとするミルの姿があった。
何度も転びながら、それでも歩こうとしていた。
ようやくトイレを済ませたミルは、またゆっくりと父の部屋へ戻ろうとした。
その姿に、俺たちは声を上げて泣いた。
母がミルを抱き上げようとしたその瞬間――ミルは転び、そのまま動かなくなった。
荒くなった呼吸。尻から流れる血。そして、これまで聞いたことのない、苦しげな鳴き声。
「ウワォァー、ウワォァー、ウワォァー」
※
その時だった。
父が、ミルの小さな胸を押し始めた。
人間で言う心臓マッサージのように、必死に。
「ぐぅっ!…しなん!!…しなんでくれ!!…ミル!!!しなんとって!!」
父は泣いていた。
声を震わせ、涙を流しながら、何度も何度もミルの胸を押していた。
その姿を見て、俺も姉ちゃんも母も、大声を上げて泣いた。
そして――ミルの呼吸は、止まった。
一番長く泣いていたのは、父だった。
※
その後、ミルの体はタオルで包まれ、リビングに運ばれた。
家族みんなで、何度も撫でた。
その夜は、誰も部屋に戻らず、ずっとミルと一緒にいた。
そして、ミルとの思い出をたくさん語り合った。
ただ、父は何も話さなかった。
言葉ではなく、涙でミルへの愛を伝えていた。
ミルは、確かに父の一番大切な存在になっていた。
最後まで名前を呼ぶことはなかったけれど――ミルはきっと、わかっていたと思う。
「おまえが一番、俺のことを好きでいてくれたんだな」って。