
昨夜、俺は嫁とケンカをした。
きっかけは本当に些細なことだった。
小学2年生になる娘の○美が、突然バイオリンを習いたいと言い出したのだ。
嫁は嬉しそうに言った。
「○美が自分から習いたいって言うの珍しいよ。やらせてあげたいな。」
だけど、その日は仕事でトラブル続きだった俺は、ついイライラしてしまった。
「どうせ一時の思いつきだろ。ほっとけば三日で忘れるさ。」
それでも嫁は諦めない。
「せっかく本人がやりたいって言ってるんだよ?」
我慢が効かず、俺はとうとう怒鳴ってしまった。
「仕事で疲れてるんだ、いい加減に黙ってろ!」
その一言で空気は凍りつき、気まずいままケンカは終わった。
翌朝も険悪な雰囲気のまま、俺も嫁も仕事に出た。
※
その日の夕方、仕事から帰宅すると、嫁はまだ目を赤く泣き腫らしていた。
罪悪感でいっぱいになり、顔を伏せた俺に、嫁が静かに声をかけた。
「あ…違うの。あのね、ちょっとこれを見て。」
嫁が差し出したのは、新聞の求人欄の切り抜きだった。
『封筒に紙を入れるだけの簡単な仕事です!』
よくあるDM封入のアルバイト募集の記事だ。
「これがどうしたの?」
俺が不思議そうに尋ねると、嫁が涙をこぼしながら話し始めた。
「今日ね、この会社から電話があったの。」
「…?」
「○美が、この会社に電話して『働きたい』って言ったんだって。」
俺は驚き、言葉を失った。
嫁は泣きながら続けた。
「電話に出た人が声が幼いしおかしいと思って、○美に家の連絡先を聞いて電話をくれたの。」
そこで嫁の涙が止まらなくなった。
「○美に確認したらね……、『ママとパパがケンカしてるのは自分のせいだってわかったから、すごく悲しかった。だから私も働いて、パパのお仕事がどれだけ大変なのかを知りたかった。私が働いたらお金がもらえるし、バイオリンも習える。それならパパもママもケンカしなくて済むから、それが一番いいと思ったの』って言うのよ…。」
その瞬間、俺の胸は締め付けられ、気が付くと涙がこぼれていた。
嫁はさらに小さな声で、
「ごめんね…」
と呟いた。
その言葉がまた、胸に突き刺さった。
※
ふと顔を上げると、ドアの隙間から○美が心配そうにこちらを覗いていた。
俺は○美を部屋に呼び入れると、わざと厳しい顔をして説教した。
「お前はまだ働かなくていいんだ。その代わり、勉強を頑張りなさい。」
そして、声を震わせながらこう続けた。
「バイオリンは習っていいぞ。ただし、途中でやめるとか言うなよ。その代わり、ママとパパもケンカしないようにするからな。わかったか?」
強い口調で言ったつもりだったのに、俺の目からは涙が止まらなかった。
こんな幼い娘にまで気を遣わせていたことが情けなくて、同時に、こんなにも優しい娘に育ってくれたことが嬉しくて、涙が溢れ続けた。
○美はそんな俺を見て、心配そうに小さくうなずいた。
ああ、本当に俺の娘は世界一の娘だ。
心からそう思った。