タクシーの中でお客さんとどんな話をするか、平均で10分前後の短い時間で完結する話題と言えばやはり天気の話になります。
今日の福岡は台風11号の余波で、朝から断続的に激しい雨が降っていました。
午後も遅く、駅の近くの整骨院からそのおばあちゃんをお乗せした時もー。
「どちらまで行きましょう?」
「近くて悪いけど、五条(太宰府市)の○○薬局までお願いできるやろか」
「了解しました」
普通に走れば10分程の距離です。
「よく降りますねー」
「やっぱり台風の影響やろうか」
「四国や近畿は大変みたいですよ」
「福岡は被害が少なくてな、有難かよ」
「オオカミ少年の話みたいに、来る来るって言われて来ないと段々警戒しなくなりますよね」
「そういう時が本当は一番危なかとよ」
と、ここまでは最近の定番の流れです。
※
車は若干の渋滞の中を増水した川に沿って走っていました。
「昔な、私がまだ小学校の三年生やった頃、台風でこの川が氾濫した事があったとよ」
「はあ…」
「家の台所、その当時は土間やった所に水が入って来てな、母親が学校に行って人を呼んで来なさいって言うとよ。
その母親は継母で厳しい人やったけん、私は逆らえんで雨風の中に飛び出したと」
「ほほう…」
「ちょうど今ぐらいの時間やったけど、空はもっと暗くてね。どこが川なんか分からんくらい辺り一面水浸しやった。
途方に暮れたけど、家に戻ると叱られるって分かっとったからな、もう無我夢中で土手をよじ登って、何度も吹き飛ばされそうになりながら学校に向かって走ったとよ。
校舎の裏の崖を今度は半ば流されながら下って、やっと学校にり着いた時には、辺りはもう真っ暗やった…」
車は五条の通りをノロノロと進んでいます。
台風で学校に残っていた先生達は、職員室に駆け込んで来た彼女を見て驚いた様子でしたが、彼女が事情を話すと数人の男性教師が合羽を着て外に走り出して行きました。
「よくここまで来たね」
「お母さんがよこしたの?」
「そう…大変だったわね」
残った先生達が彼女を労ってくれました。
皆、彼女の家の事情は知っていたようで、
『可哀想にこんな小さな子を台風の中外に出すなんて』
という気持ちだったのでしょう。
中でも一人の女性教師が、
「T子ちゃん、こんなに濡れて頑張ったね!
辛かったね。
でもお母さんを悪く思わないでね」
と抱きかかえるようにして彼女の身体を拭いてくれました。
「有り難くてね、涙が止まらんかったよ」
あと一つ角を曲がれば薬局が見えてきます。
僕は『そろそろ切り上げ時かな』と思い、
「先生の恩って有難いですね」
とか何とか、無難な合いの手を入れて話しを終わらせようとしました。
しかし、次の彼女の一言で言葉が出なくなりました。
「後で判ったんやけどな、その時の女の先生っていうのが私の本当のお母さんやったんよ」
※
車は薬局の駐車場で停止しました。
「ごめんな、運転手さん。年寄りの話に付き合わせて」
「いえ…」
「いくらかな」
「920円です」
千円札を出して、
「お釣りはいらんからな、コーヒー代にもならんやろうけど」
「ありがとうございます」
足を庇いながら俯き加減に降りて行ったおばあちゃんの顔は見なかったけど、泣いているのは声で分かりました。
顔を見られなかったのは、僕も泣いていたからです。