
私の夫は、結婚する前に脳の病気で倒れ、死の淵を彷徨いました。
その知らせを私が知ったのは、倒れてから5日も経ってからのことでした。
彼の家族が病院に駆けつけた際、彼の携帯電話を見て私の存在に気づき、連絡をくれたのです。
病名は深刻で、脳に関わるため記憶障害が残る可能性が高いと医師に言われました。
お見舞いに向かった私は、不安と緊張で胸が張り裂けそうでした。
彼が私のことを覚えているか、それすらも分からなかったのです。
病院では、ご家族や医療関係者から再び彼の状態について詳しく説明がありました。
彼は家族などの古い記憶はある程度残っているものの、自分が10代だと思い込むなど、記憶の混乱が激しいとのことでした。
「新しい記憶ほど抜け落ちている」
そう聞いて、私は覚悟を決めて病室の扉を開けました。
※
彼は、私を一目見た瞬間、私の名前を呼びました。
それまで医師が「この人のことが分かりますか?」と聞いても何も返せなかった彼が、です。
私はその場で涙が止まらなくなりました。
「どうして…覚えていてくれたの?」
そう聞きたくてたまらなかった。
神様に、「たった一つだけでも、私のことを彼の記憶に残してくれてありがとう」と、わあわあと泣き叫びたいほどの感謝で胸がいっぱいでした。
忘れられるかもしれないという恐怖は、想像を絶するものでした。
※
その後、彼は脳に水が溜まったことが原因で、半年間も意識を失いました。
長い眠りから目を覚ました時、やはり私のことを覚えていてくれました。
けれど、私たちの出会いも、一緒に過ごした日々も、どこへ出かけたかも、何一つ思い出せない状態でした。
たくさんのことを失ってしまった彼が、なぜか私の名前だけは失わずにいてくれたのです。
私は彼に尋ねました。
「どうして、私のことだけ覚えていたの?」
彼は、少し照れくさそうに笑って言いました。
「他のことは何にも思い出せない。でも、好きな人だったから、覚えてた」
その一言を聞いた時、私は迷わず彼との結婚を決意しました。
※
今も彼は、短期記憶がほとんどできません。
10分前に食べたものすら、すぐに忘れてしまいます。
おそらく、一生介護が必要になるでしょう。
でも、すべてを忘れてしまった世界の中で、私のことだけを覚えていてくれた人。
その愛情を、私は一生かけて返していきたいと思っています。
彼は、毎日私を探します。
私が少しでも姿を見せないと、不安そうに「○○(私の名前)、どこ?」と呼びます。
私が顔を見せると、彼は子どものように「よかった、安心した」と笑うのです。
私たちの間にあるのは、今や愛情だけです。
贅沢なデートも、高価な贈り物もありません。
けれど、これ以上に深く、あたたかく、誇らしい愛情は他にありません。
※
「同情なんじゃないの?」
「後で後悔するよ」
そう言う人もいました。
確かに、お金はかかるし、日々の介護は大変です。
でも、結婚してから何年経った今も、私は毎日、満たされた気持ちでいっぱいです。
彼が私を求めてくれることが、私にとっては何よりの幸せだから。
※
いつかどちらかがこの世を去るその日まで――
私はこの人と、ずっと寄り添って生きていきたい。
たとえ明日、私の名前すら忘れてしまったとしても。
私は、今日も彼のそばにいます。
それが、私の幸せだから。