
俺は、これまでの人生で三度だけ、神様にすがったことがある。
※
最初は、七歳のとき。
両親が離婚し、俺は父方の祖父母に預けられた。
祖父母はとても厳しく、愛情というものはまるで感じられなかった。
「お前なんて、生まれてこなければよかった」
「お前のせいで、あのふたりは別れたんだ」
そんな言葉を、繰り返し浴びせられた。
夜になると、孤独と寂しさに押し潰されそうになり、布団の中で声を殺して泣くしかなかった。
※
ある晩のこと。
ふと、カーテンの隙間からやわらかな光が差し込んでいた。
気になってカーテンを開けると、夜空には満月が浮かび、まるでこちらを見つめているようだった。
優しく、静かに、見守るようなその光が、当時の俺には“神様”のように思えた。
月なら、何かを叶えてくれるんじゃないか。
そう信じた俺は、人生で初めて祈った。
「父ちゃんと母ちゃんと一緒に暮らしたい。神様、お願いします…」
※
けれど、願いは叶わなかった。
親父は、その年の正月に一度だけ顔を見せただけで、それ以降は2、3年に一度会うかどうか。
母親には、離婚以来一度も会うことはなかった。
それ以来、俺は誰かを信じることも、涙を流すこともなくなっていった。
心は、静かに凍っていった。
※
中学を卒業すると、俺は祖父母の家を飛び出し、住み込みで働き始めた。
厳しい環境だったが、それでも自由だった。
二十歳になったとき、こんな俺にも恋人ができた。
やがて結婚し、彼女は俺の妻となった。
彼女は、俺が初めて心から信じることのできた人だった。
優しく、強く、あたたかい人だった。
※
そして、ふたりの間に子どもが生まれた。
けれど──
我が子は、左の手足や内臓が未発達という重い障害を抱えていた。
医師に言われたのは、残酷な一言だった。
「持って一ヶ月です」
※
病院の夜。
待合室でひとり、暗闇に包まれながら、俺は呆然としていた。
ふと窓の外を見ると、そこには満月が浮かんでいた。
子どもの頃に見た、あの時の月とまったく同じだった。
もう二度と流すことはないと思っていた涙が、溢れて止まらなかった。
祈るしかなかった。
「俺はどうなってもいい。だから、この子だけは助けてください」
二度目の神頼みだった。
床に頭をこすりつけ、声を殺して泣きながら、何度も何度も願った。
けれど──
願いは、またしても叶わなかった。
我が子は、生まれてからちょうど一ヶ月で、天に還っていった。
※
三年後。
地元の会社が倒産し、俺は関東へと働きに出ることになった。
妻は、知り合いもいない場所での暮らしに不安を感じていたため、俺は単身で上京した。
それが原因となり、寂しさやすれ違いが積み重なり、離婚することになった。
一年後、彼女が再婚したと聞き、少しだけ安心した。
俺は地元には戻らず、ひとりで関東での生活を続けていた。
※
ある日、偶然にも、子どもの頃からの友人と再会した。
なぜか馬が合う、唯一「友達」と呼べる存在だった。
よく殴り合いの喧嘩もしたが、気づけば一番大切な奴になっていた。
四年ぶりの再会だった。
とはいえ、心のどこかで「誰も信用できない」という気持ちは消えておらず、完全に信じていたわけではなかった。
それでも、そいつはよく俺の家に泊まるようになり、気づけばまた、日常に溶け込んでいた。
※
再会から一ヶ月が経った頃。
そいつは体調を崩し、熱を出すようになった。
何度も「病院に行け」と言ったが、病院嫌いの彼は聞く耳を持たなかった。
ある日、久しぶりに「今日は自分の家に帰る」と言って去った。
翌日、病院から電話がかかってきた。
自宅の前で倒れていたらしい。救急車で搬送されたという。
病院へ駆けつけると──診断は、末期の癌だった。
すでに全身に転移していて、「持って半年」と告げられた。
※
四年前、そいつの身体にはこぶのような腫れができていた。
それが癌だったらしい。
もし、あの時に病院に連れて行っていれば──助かったかもしれないと医者は言った。
病院嫌いのあいつを、無理にでも連れて行けるのは俺しかいなかった。
「すまん」と、泣きながら謝った。
あいつは、笑って「お前、馬鹿か」と言った。
※
仕事が終わると、毎日のように病院へ通った。
ある日、病室にあいつの両親が来ていた。
「こいつ、俺の大親友なんだ」
あいつはそう言って、俺を紹介してくれた。
その言葉が、胸に刺さった。
俺なんかが──大親友だなんて。
トイレに駆け込み、情けなくて、悔しくて、声を殺して泣いた。
心から信じきれていなかった自分が、恥ずかしくてたまらなかった。
※
数日後のこと。
あいつは、ずっと弱音を吐かなかった。
けれど、ある夜、ぽつりとこう言った。
「まだ……死にたくないな」
そのとき、俺は何も言えなかった。
言葉が出なかった。
ただ、泣いた。
あいつも、黙って泣いていた。
二人で、夜通し泣いた。
※
病院を出て、空を見上げると、そこには満月があった。
何度も何度も祈ってきた、あの月だった。
俺は地面に膝をつき、手を合わせた。
「もう、願いごとはしません。どうかお願いします」
「俺の命と引き換えでいい。あいつを助けてください」
三度目の神頼みだった。
それでも──願いは、届かなかった。
あいつも、逝ってしまった。
※
それから、数年が過ぎた。
今、俺は独りで、ただ何となく生きている。
俺のせいで、子どもが逝った。
俺のせいで、あいつが逝った。
俺のせいで──
そんな思いが、いつも胸を締めつける。
寂しくて、苦しくて、どうしようもない。
何度も、「もう終わらせたい」と思った。
けれど、死ぬのはやめた。
これは、俺に与えられた罰だと思うことにした。
※
だから一生、孤独の中で生きていこうと思った。
職場でも、人と話すことは極力避けている。
何人か、俺に好意を寄せてくれる女性もいた。
でも、すべて断った。
誰かを不幸にするぐらいなら、ひとりでいい。
もう誰も──巻き込みたくない。
※
息子よ。
親友よ。
そして、俺に関わってくれたすべての人たちへ。
本当に、ごめんな。
いつか、俺がそちらに行ったとき──
息子は、また「父ちゃん」と呼んでくれるだろうか。
あいつは、もう一度「大親友」と言ってくれるだろうか。