今から6年前の話です。
僕がまだ十代で、携帯電話も普及しておらずポケベル全盛期の時代の事です。
僕はその頃、高校を出て働いていたのですが、二つ年上の女性と付き合っていました。
お互いの親にも会ったりしていて、僕は結婚する事を信じて疑いませんでした。
当時は毎朝、ポケベルで『オハヨウ』とか『ガンバッテネ』というメッセージの遣り取りをしていました。
しかしある日、僕がメッセージを送るのが面倒くさくて送らない日があり、彼女からもメッセージは送られて来ませんでした。
ちょうどその日は給料日で、僕は今日彼女とどこかへ行って、飯でも奢ろうと考えていました。
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仕事が一段落つき、昼休みに入って食事に行こうとした時、僕宛の電話が鳴りました。
その電話は、彼女の交通事故を告げる電話でした。
僕はその電話を置いた後、暫く何の事か解らなかったのですが、
「今、意識不明だ」
という言葉に体中が汗ばんだのを覚えています。
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すぐに会社を早退し、彼女が運ばれた病院へ向かいました。
電車の中で『実は大した事ないんちゃうかな?』などと自分に都合の良い方に考えていました。
しかし『もしかしたら…』と考えると、周りに人が居るのにボロボロと涙が出て来て、凄く寂しい気持ちが溢れて来ました。
僕が病院に着く頃には意識が戻っている事を祈りながら、病院まで走って行きました。
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彼女の家族に会い、容態を聞いてみると彼女は集中治療室に入っているとの事で、事態の深刻さを悟りました。
外傷は殆ど無く、脳にショックを受けたらしく、まだ意識は戻っていませんでした。
僕は取り敢えず、会社に彼女の意識が戻るまで休む事を電話で伝え、病室の前で意識が戻るのを待つ事にしました。
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その日は病院のソファーで、殆ど眠れずに夜を明かしました。
目の前のストーブで、背中は寒かったのに顔だけが凄く火照っていました。
結局その日は意識が戻る事は無く、次の日の朝一番で着替えなどを家に取りに帰りました。
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病院に帰ってみると、明日手術が出来るかどうかが分かるだろうという、医者からの話があったそうです。
そして5分だけ面会時間がもらえるとの事で、僕は会いたいような会いたくないような複雑な気持ちでしたが、給食当番の時のような白い服を着て、彼女に会いに部屋に入りました。
部屋の中には訳の解らない機械が沢山あり、その中のベッドの一つに彼女が寝ていました。
まるで眠っているだけのような顔で、名前を呼べば今すぐにでも起き上がって来そうでした。
手を握ると、腕の辺りに点滴などの管が何本も刺されていて、容態の悪さを物語っているようでした。
それと唇が妙にカラカラになっているのが気になりました。
5分間をいうのは短いもので、何か話し掛けようとしたのですが、何となく周りの目が恥ずかしくて言葉らしい言葉を掛けられませんでした。
その日は少し気分も落ち着いていて、何故か『絶対大丈夫!』という根拠の無い自信で一杯でした。
それからは彼女の意識が戻ってからの事ばかり考えるようになり『頭の手術するんやったら髪の毛剃らなあかんから、帽子が要るし買いに行こう!』と、買い物に行く事にしました。
この時、僕は目を覚ました彼女を喜ばせる事だけを考えていました。
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早速帽子を探しに行き、キャップは似合わないし、ニット帽だとチクチクするからという事で、綿で出来た帽子を探して買いました。
買い物が済み帰ろうとした時、街中を歩く女の子を見ていると、何だか自分が現実から少しズレた場所に居るような気がして、妙な不安を感じました。
その不安からか、彼女の意識が戻ったら正式にプロポーズしようと、安物ですが指輪まで買って帰りました。
その日も結局、容態に変化は無く過ぎて行きました。
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次の日のお昼前、彼女の父親だけが医者に呼ばれ、病状の説明を受けるとの事だったのですが、無理を言って僕も同席させてもらいました。
どうしても自分の耳で医者から聞きたかったのです。多分、あれほど緊張した事は今までに無かったと思います。
医者の部屋に入り医者の顔色を見てみると、どちらとも取れない無表情な顔をしていました。
医者が口を開き、簡単な挨拶が終わった後で喋り出したのですが、病状は良くなるどころか病院に運ばれた時点で既に手遅れでした。
僕はこれを聞いて頭がグラグラし始め、椅子から落ちないようにする事しか考えられませんでした。
どうやら今、治療をしているように見えるのは、家族に心の準備をさせるために無理やり心臓を動かして、体だけ生かして少しずつ悪い方向へ持って行くというものでした。
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部屋を出ると、彼女の父親から家族にはまだ言わないで欲しいと言われました。
僕は泣き出しそうになるのを堪え、母親に話し掛けられても
「用事が出来た」
とだけ言い残し、誰も居ない場所まで走りました。
街中であれだけ涙を流して大声で泣いたのは初めてでした。
涙が枯れた頃に病院へ戻り、出来るだけ普通に振る舞いました。
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その夜、彼女の父親と銭湯へ出掛けました。
二人とも殆ど無言で風呂に入り、話す事と言っても他愛も無い会話ばかりでした。
僕は彼女の父親にはどうしても聞いておきたい事がありました。
僕が彼女と結婚すると言ったら許してくれるかどうかでした。
今考えると、絶対に聞くべきではない時に聞いたような気がします。
病院に戻る前に父親を呼び止め、ストレートには聞けなかったのですが、買って来た指輪を彼女の指に着けても良いか聞きました。
彼は黙って頷くだけでした。
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その夜は眠る事が出来ず、家族と顔を合わせると泣いてしまいそうで、外で一人で過ごしました。
次の日、また5分だけ面会出来るという事だったので、もう一度彼女の顔を見に行きました。
彼女の顔は相変わらず眠っているようで、もう目を覚まさない事が嘘のようでした。
僕は彼女の左手にこっそりと指輪と着けました。
もう何の意味も無いのは解っていましたが、少しでも彼女に近付きたいという気持ちで一杯でした。
みんなが部屋を出た後、僕は忘れ物をした素振りをしてベッドの側に戻り、彼女のカラカラの唇にキスをしました。
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それから暫く経ち、彼女は一般病棟の個室に移る事になりました。
医者が言うには、もう長くないので少しでも家族が一緒にいられるようにとの配慮だそうです。
僕は一日の殆どをその部屋で過ごすようになりました。
何もする事も無かったのですが、話し掛けると声が届いているような気がして、耳元で歌を歌ったり、話し掛けたりしていました。
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そして夜が明けて昼過ぎになると、医者と看護婦が入って来ました。
皆さんを呼んでくださいという流れになり、みんなが見守る中、心拍数を表示しているピッピッと鳴る機械に異変が見られるようになりました。
最後まで僕に片方の手を握らせてくれた彼女の家族に感謝しています。
それから一時間ほど経った後、そのまま静かに心臓が停止しました。
僕も含め、部屋に居る人みんなの泣き声だけが聞こえて来て、覚悟はしていたものの、本当にこうなった事が信じられなかったのですが、医者の何時何分という声に現実に引き戻されました。
そして部屋に居る全員が驚く事が起こりました。
僕が握っていた彼女の手が、物凄い力で、僕の手を握り返して来たのです。
僕は本当に驚いて、多分変な声を出していたと思います。
暫くして彼女の手からスーッと力が抜けて行きました。
僕は全員にその事を伝えました。
すると彼女の母親が、
「きっと一生懸命看病してくれたから、ありがとうって言ってるんやで」
と言ってくれました。
冷静に考えると死後硬直だったのでしょうけれども。
その彼女の母親の一言で、僕は今まで道を間違わずに来られたと思います。
年上だった彼女は、今では年下になりました。