彼女と俺は同じ大学だった。二人とも無事四年生になってすぐの4月、連日のように中国での反日デモがニュース番組を賑わしていた頃のこと。
中国人の彼女とはどうしても険悪なムードになるから、二人で居るときは極力テレビを見ないように努めていたし、口にも出さないようにしていた(サッカーアジアカップの時に一悶着あったもので)。
しかし、その日は二人とも朝の支度に追われ、時計代わりのテレビを点けたまま彼女は化粧を、俺はパンを頬張ったりしていた。まあ、傍から見ればよくある朝の光景。
いつもは見ないニュースが襲撃される日本料理店を映し出す。暴徒の声。化粧に勤しむ彼女には画面を見なくても意味が解るだろう、当然だが。
「何て国だ…」
ぼそっと、しかし彼女に聞こえるのを承知で吐き捨てるように言ってしまった。
評論家の辛辣なコメントに触発されたかのように、俺は今まで溜めていた怒りや憂いを、あたかも独り言のように彼女の背中に浴びせた。
彼女は眉の形が気に入らないらしく、何度もやり直していた。
※
そろそろ時間なので上着を選んでいたら、彼女が
「そんなに嫌い?」
と妙に落ち着いたトーンでぽつりと呟いた。
「あの人たちがやってることは本当にバカで情けない。でもそれには原因がある。理由がある…」
語気が段々荒くなるのが手に取るように分かった。いつの間にか議論とは言えない口論に…。
お互い溜まっていたのだろう。内容はと言えば、政府同士の遣り取りよろしく噛み合わない、平行線。
流石にもう出掛けないといけない時間なので、だんまりを決め込んで玄関に向かったら、後ろから裾を掴まれ、
「けんかしたくない…」
と、さっきまでの剣幕が嘘のように。背中越しにも泣いているのが判った。
もう抱き締めるしかなかった。言葉が見つからない。狭い玄関で二人で声を上げて泣いた。
情けなかった。さっきまで日中両国の関係について評論家ぶった口を利いていた男が、一人の恋人をこんな風に泣かせている。
『愛しているのにとっても不幸せ、どうしたらいい?』
古い漫画の一節が浮かんだ。
一頻り泣き合って、結局ゼミは休んでしまった。
※
先日、彼女の誕生日ということもあって、久しぶりに二人で田舎に帰った。
父方の祖父(故人)は戦前から中国の領事館に居た(祖母は大陸まで祖父を追って、半ば押し掛け女房のように結婚したらしいです)。
ただその赴任先が南京だったということを彼女に話したら、少し複雑そうな顔をしていた。祖父は軍人ではなかったのだが、まあ仕方ないことだろう。
何度か顔を合わせていることもあり、祖母や両親、妹ともすっかり打ち解けてくれて(特に祖母の滅茶苦茶な中国語がツボらしい)、理解のある家族に感謝した。
帰りしなに祖父の墓参りに二人で行って来た。やはり祖父にも報告しなければと思ったので。
一応彼女に聞いてみたら、
「総理の靖国参拝は反対だけど、おじいちゃんならいいよ」
だそうだ。あまり変わらない気もするが…。
墓前で、
「手はたたく?」
「それ神社」
なんて遣り取りをしつつ、祖父への報告も終え帰路に着いた。
※
来春結婚します。夏休みに彼女の両親に会いに行きます。
まだお互い完全に理解したとは言えないけれど、ゆっくりゆっくり幸せになりたいと思います。
最後に、最後の大喧嘩の日に彼女に送ったメールを。
『我們可以互相愛
絲毫不必担心
(私たちは愛し合える。何も心配はいらない)』