泣ける話や感動の実話、号泣するストーリーまとめ – ラクリマ

私の宝物

妊婦さん(フリー写真)

中学2年生の夏から一年間も入院した。

退院して間もなく高校受験。

高校生になると、下宿生活になった…。

高校を卒業して就職。

田舎を飛び出して、会社の寮に入った。

そしてそのまま結婚。

嫁ぎ先は結構遠い。

しかも厳格な家で、実家には殆ど帰れない。

でも、まあ、帰りたいと思った事があまり無いのだ。

どんなに辛くても、実家に帰ろうと考えた事が無い。

中学2年生の14歳から今に至るまで、殆ど家に居ない娘だった。

携帯電話も無い時代。

不思議と寂しいと思った事は無い。

ホームシックの覚えは無い。

寧ろどの時期も楽しんでいた。

高校時代は週に一度くらい電話を入れていたような気もするが、就職してからは家に電話をする事も殆ど無い。

『便りが無いのが元気な知らせ』

きっと家族もそう思っているだろう…。

特に母はサッパリした人だ…。

涙もろくてお人好しで、喜びも悲しみも分かりやすく全身で表現する父に比べて、母はどちらかと言うと淡々とした人だ。

私は家や家族が嫌いな訳じゃない。

大好きな大好きな家族である。

連絡しなくても心が繋がっている。

だって家族だもん。

そんな風に思っていた。

なんて自分勝手なんだろうと、今は反省しているけど…。

母が一度だけ、就職先の会社に電話をして来た事がある。

当時の私には彼氏が居て、毎晩のように彼氏と遊びに出掛けていた。

そのため寮に電話してもなかなか捕まらず、止む無く仕事中の会社に電話を繋いだのだった。

内容は、なるべく近い内に一度、家に帰って来て欲しい。私の写真を撮りたいのだと言う。

母が私に頼み事をするなんて珍しい。

しかもこんなに強引な事は皆無に等しい。

ちょっと驚いた。

私の田舎は雪深い所で、成人式は夏に行われる。

だから振り袖を着ていない。

どうしても、私の振り袖姿の写真が欲しい。

そう言うのだった。

私は23歳になっていた。

久し振りに実家に帰った。

連れて行かれた写真館で…振り袖は母の見立てで既に決まっていた。

色は赤、模様は黒。

特に文句は無い。

化粧をし、髪を上げ、着物を着付け、写真を撮影している間ずっと、母は嬉しそうに、はしゃいで見えた。

後日、出来上がった写真を、母は何度も何度も見て

「私の宝物」

そう言った。

先日、呉服屋へ来年成人式を迎える娘の振り袖を見に行った。

あれもこれもと、着物に袖を通す娘。

「この色いいわね」「この柄の方が似合うんじゃない?」「さっきの方が顔が映えるわよ」

キラキラ輝くように娘の姿が眩しくて、嬉しくて楽しくて。

ふと…、あの時の母の、はしゃいだ嬉しそうな姿を思い出した。

娘は今、19歳の専門学校生。

今だに世話も焼けるし、心配も多々…。

でも、そうやって世話を焼いたり心配をしたり。

私は娘のおかげで『母』である事を実感する。

あの時の母は紛れもなく『母』だった。

自分が『母らしく』ある喜びを噛み締めていたのかもしれない。

考えてみたら、私が19歳の頃は、もうすっかり親元を離れていた。

自立していた。

金銭面で親に頼る事はもう卒業していた。

同時に、娘らしく親に甘える事も無かった。

14歳の頃から殆ど家に居なかった…。

「わっこはしっかりしとるで、な~んにも心配しとらん」

それが口癖の母は…。

私の母は…。

本当は心配で心配で。

出来れば近くに置いておきたい。

そう思っていたのではないだろうか…。

電話もしない、帰省もしない、そんな娘を責める事もしなかったけど。

だからこそ、その心の中は計り知れない…。

遠い記憶を遡る。

高校を卒業する時、53キロもあった体重が、就職して一年間で39キロになった。

持病が原因の貧血も酷く、フラフラになり、遂に職場で倒れて二週間の入院を余儀無くされてしまった19歳の春。

何ヶ月も実家に電話も入れず、遊び呆けてもいたから不摂生も祟ったのかも。

母は実家から3時間以上も掛かる病院に軽トラックで駆け付け、どこで買って来たのかリンゴとナイフ持参で、私の横で皮を剥いて食べさせてくれた。

私が倒れて入院しているのに、看病に来た母は、楽し気に見えた。

子供の出産の時は、一ヶ月も実家の世話になった。

あの時の母はとても嬉しそうで、孫が生まれるというのは、そんなに嬉しいもんかねぇ…なんて思ったけど。

母は私が家に居る事が嬉しかったのではないだろうか…。

母として世話を焼く事の出来る喜び。

あまり真面目な話をしない母が、ずっと前に言っていた。

「母さんはね、一応あんたの歳も経験して今があるの。

そりゃ、わっこと母さんは違うけれど、わっこの年頃にどう考え何を思って来たのか、それは経験して来たのよ。

わっこは、母さんの歳の気持ちは、想像は出来ても経験した事は無いでしょ。

だからね。

『親の心子知らず』なのよ」

娘が年頃になり、私はその年頃だった自分の姿と重ね合わせてみる。

私が親元を離れ、自分で稼いだお金で一番無茶もした年頃だ。

先にも書いたように、遊び呆けていた(フラフラになるまで)。

だから今、娘を見て自分の娘だから、まっ、しゃ~ないと諦めたり。

自身の経験から、もしかしたら傷付くのではなかろうかと心配したり。

でも何事も経験だから…と、なるべく口を出さないで見守ったり…。

信じて見守ろう。私の娘だ。

いや…私の娘だから心配だ。

心の中はこんな葛藤を繰り返し。

ああそうか。

こういう事か。

今、19歳の娘を持つ母親の気持ちが解る。

母親というものがどんな風に考え、どんな事を心配し、どんな気持ちで娘を見守っているのか…。

娘が25歳になったら、私が25歳だった時の母の気持ちが解るのかも…。

娘が35歳になったら、私が35歳だった時の母の気持ちが解るのかもしれない…。

そうやって、ずっと母の気持ちを追い掛けて、自分の中で再生して行くものかもしれない…。

私の娘は一つ屋根の下で暮らしている。

娘が居ない暮らしを想像すると、あの頃の母の気持ちが解る。

お母さん…。

寂しかったよね。

今からでも間に合うだろうか…。

母は今、67歳。

長生きしてもらおう。

私が80歳になった時に知る。

80歳の頃の母の気持ちが。

孤独と寂しさに暮れていませんように…。

やっぱり娘を生んで良かったと…。

幸せに満ち溢れたものでありますように…。

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