俺の親父は我儘な人だった
小遣いは母親から好きな時に好きなだけ貰い、そのくせ下手なギャンブルでスっては不機嫌な様子で家に帰って来て、酒を飲みまくり暴れるような人だった。
幸い暴力を振るうことは無く、ただ怒鳴り声を上げるだけだったが、子供の俺にとっては『暴君』そのものだった。
そんな親父と、働き者で頭の良い母親が何故結婚したのか判らないが、とにかくそんな二人から俺は産まれた。
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小学生の時は、休日になるとギャンブルで負けた親父が夕方から酔っ払って家に居た。
なので休日はなるべく母親と用事を作り、外に出て時間を潰していたことを憶えている。
中学、高校、大学と自分が成長するに連れて親父の背を追い越し、力で勝るようになると親父を恐れることは次第に無くなって行った。
それでも俺にとっての親父は我儘で、ギャンブルと酒が好きなどうしようも無いおっさんだと思っていた。
大学の時には酔っ払って帰って来た親父と大喧嘩になったこともあった。
そんな親父のこともあり、俺は大学を卒業すると県外で就職した。
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就職して3年が経った頃、親父が入院することになった。
親父は長年糖尿病を患っており、そのせいで心臓や末端神経が弱り、右足を切除することになってしまった。
疎んじて来た親父とは言え、血の繋がった家族のことなので、急ぎ帰省して手術に立ち会った。
手術が終わり会いに行くと、親父は右足を切除し、憔悴したまま病院のベッドに横たわっていた。
掛ける言葉も無いまま帰省が終わり、県外へ戻って暫くすると母親から連絡があった。
「お父さんが○○ホテルに泊まってバイキングに行きたいんやって」
そのホテルは俺がまだ小さい頃、家族で行った遊園地に付属しているホテルのことだった。
家事を手伝ったり買い物に一緒に行ったりなどの家族サービスは殆どせず、旅行や外泊を嫌っていた親父が何故そんなことを言い出したのかその時は分からなかったが、連れて行ってあげることにした。
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ツーリストをやっている友人に手配を頼み、親父を抱えて車に乗せ、ホテルに着いてからは車椅子を押して回った。
バイキングで食事をしている時も体が弱って殆ど食べられず、頼んだジョッキビールも一口飲んで後は全部俺に譲った。
そこにはかつて家庭に君臨していた暴君の姿は無かった。
20年振りに親子三人、同じ部屋で川の字になって泊まった。
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そしてホテルを後にし、病院まで送っている最中に
「お前には世話になった、ありがとう」
突然親父が言った。
それは25年の人生で初めて聞いた感謝の言葉だった。
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そんな家族旅行を終えて一週間後、親父は脳梗塞で麻痺で会話が出来なくなった。
そしてその二週間後、弱った心臓が原因でこの世を去った。
結局、家族旅行で言われた感謝の言葉が、俺の聞いた最後の親父の言葉になってしまった。
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恐らく親父は自分の死を勘付いていたのではないかと思う。
そこで家族の思い出の地に旅行へ行き、自分の成長を見届け、感謝の言葉を述べたのだと思う。
自分にとっても疎んじていた暴君としての親父ではなく、年老いた父親に最後の親孝行が出来た。
亡くなってもうすぐ一年が経つが、あの家族旅行は自分にとって一生の宝物だ。
あの時に言われた言葉を胸に、暴君の居なくなった世界を生きて行きたいと思う。