サイトアイコン 泣ける話や感動の実話、号泣するストーリーまとめ – ラクリマ

母の願い、父の誓い

親子

俺には母親がいない。

俺を産んですぐ、事故で死んでしまったらしい。

産まれた時から耳が聞こえなかった俺は、物心ついた時にはもう、簡単な手話を使っていた。

耳が聞こえないことで、俺は随分と苦労した。

普通の学校には行けず、障害者用の学校で学童期を過ごした。

片親だったせいもあってか、近所の子どもに馬鹿にされた。

耳が聞こえないから、何を言われたかは覚えていない。

ただ、あの見下すような、馬鹿にしたような顔は、今でも鮮明に覚えている。

その時は、自分がなぜこんな目に遭うのか理解できなかった。

しかし、やがて障害者であることが理由だと知り、俺は心を塞ぎ込んだ。

思春期のほとんどを、家の中で過ごすようになった。

自分に何の非もないのに、不幸な目に遭うことが悔しくて仕方がなかった。

だから俺は父親を憎んだ。

そして、死んだ母親すら憎んだ。

なぜ、こんな身体に産んだのか。

なぜ、普通の人生を俺にくれなかったのか。

手話では到底表しきれない想いを、暴力に変えてぶつけた。

時折爆発する俺の気持ちに、父は抵抗せず、ただただ涙を流しながら、

「すまない」

と手話で言い続けていた。

その頃の俺は、何もやる気が起きず、荒んだ生活を送っていた。

そんな生活の中で、唯一の理解者がいた。

それが、俺の主治医だった。

俺が産まれた後、耳が聞こえないとわかった時から、ずっと診てくれていた先生だ。

俺にとっては、もう一人の親のような存在だった。

何度も、悩み相談に乗ってくれた。

父親を傷つけてしまった時も、優しい目で、何も言わずに話を聞いてくれた。

咎めるでもなく、慰めるでもなく、ただ静かに受け止めてくれる先生が、大好きだった。

ある日、どうしようもなく傷つく出来事があった。

泣いても泣き切れない、悔しくてたまらない経験だった。

俺はまた、先生のもとを訪ねた。

長い愚痴のような相談を続ける中で、多分、

「死にたい」

という想いを手話で表した時だったと思う。

突然、先生が怒り出した。

そして、俺の頬を思い切り殴った。

びっくりして顔を上げると、さらに驚いた。

先生が泣いていた。

そして、震える手で、静かに話し始めた。

ある日、父親が赤ん坊の俺を抱えて、先生のもとにやってきたという。

検査結果は最悪で、俺の耳が一生聞こえないだろうと告げたという。

父親は、どうにかならないかと凄い剣幕で詰め寄ったらしい。

そして、先生が俺に語った。

「君は不思議に思わなかったかい。物心ついた時には、もう手話を使えていたことを」

確かに、俺は特別に手話を習った覚えはない。

じゃあ、なぜ…。

「君の父親はね、こう言ったんだ。

『声と同じように僕が手話を使えば、この子は普通の生活を送れますか』と」

驚いた。

小さい頃から手話を自然に覚えられるように、父親は声をかけるように手話を使い続けたのだ。

それは簡単なことではない。

全てを投げ捨てて、手話の勉強に専念しなければできないことだった。

先生は続けた。

「その無謀な挑戦の結果は、君が一番よく知っているはずだよ。

君の父親はね、何よりも君の幸せを願っているんだ。

だから、死にたいなんて言っちゃ駄目だ」

涙が止まらなかった。

父さんは、その時していた仕事を捨て、俺のためだけに手話を覚えたのだ。

俺はそんなことも知らず、父親を馬鹿にしていた。

間違っていた。

父さんは、誰よりも俺の苦しみを知り、誰よりも俺の悲しみを知り、そして誰よりも俺の幸せを願ってくれていた。

濡れる頬を拭うこともせず、俺は泣き続けた。

そして、父さんに暴力を振るった自分自身を心底憎んだ。

なんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。

父さんは、俺の親だったのに。

耳が聞こえないことに負けたくない。

父さんが負けなかったように。

幸せになろう。

そう、心に決めた。

現在、俺は手話を教える仕事をしている。

そして、春には結婚も決まった。

俺の障害を理解した上で、愛してくれる最高の人だ。

父さんに紹介すると、にこやかに、

「母さんに報告しなきゃな」

と言った。

でも、遺影に向かい線香をあげる父さんの肩は、小刻みに震えていた。

そして、遺影を見つめたまま、静かに話し始めた。

俺の障害は、先天的なものではなかった。

事故によるものだったらしい。

俺を連れて歩いていた両親に、居眠り運転の車が突っ込んできたのだ。

運良く父さんは軽症で済んだが、母さんと俺は酷い状態だった。

俺は何とか一命を取り留めたが、母さんは回復せず、命を落とした。

母さんは、最後の瞬間に父さんへ遺言を残したという。

「私の分まで、この子を幸せにしてあげてね」

父さんは、強く頷いて、約束した。

しかし、やがて俺に異常が見つかった。

父さんは語った。

「焦ったよ。お前が普通の人生を歩めないんじゃないかって。約束を守れないんじゃないかってなぁ。

でもこれでようやく、約束…果たせたかなぁ。なぁ、母さん」

それは手話ではなく、上を向きながら、静かに呟かれた言葉だった。

でも、俺にははっきりと伝わった。

涙を溢れさせながら、俺は父さんに向かって、手話ではなく声で言った。

「ありがとうございました!」

耳が聞こえない俺に、ちゃんと言えたかはわからない。

けれど父さんは、大きく肩を揺らしながら、何度も何度も頷いてくれた。

父さん、天国の母さん、そして先生。

ありがとう。

俺、今、本当に幸せだよ。

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