ある書道の時間のことです。
教壇から見ていると、筆の持ち方がおかしい女子生徒が居ました。
傍に寄って「その持ち方は違うよ」と言おうとした私は、咄嗟にその言葉を呑み込みました。
彼女の右手は義手だったのです。
「大変だろうけど頑張ってね」
と自然に言葉を変えた私に、
「はい、ありがどうございます」
と明るく爽やかな答えを返してくれました。
彼女は湯島今日子(仮名)と言います。
ハンディがあることを感じさせないくらい、勉強もスポーツも掃除も見事にこなす子でした。
もちろん書道の腕前もなかなかのものでした。
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三年生の時の運動会で、彼女は皆と一緒にダンスに出場していました。
彼女は1メートル程の青い布を左右の手に巧みに持ち替えながら、音楽に合わせて踊っていました。
その姿に感動を抑えられなかった私は、彼女に手紙を書きました。
『今日のダンスは一際見事だった。校長先生もいたく感動していた。
私たちが知らない所でどんな苦労があったのか。あの布捌きの秘密を私達に教えてほしい』
という内容です。
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四日後、彼女から便箋十七枚にも及ぶ手紙が届きました。
ダンスの布については、義手の親指と人差し指の間に両面テープを張って持ち替えていたとのことで、
『先生の所までは届かなかったかもしれませんが、テープから布が離れる時、ジュッという音がしました。
その音は私にしか聞こえない寂しい音です』
と書かれていました。
『寂しい音』
この言葉に、私は彼女の心の奥に秘めた、人に言えない苦しみを見た思いがしました。
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十七枚の便箋に書かれてあったのはそれだけではありません。
そこには、生まれてから今日に至るまで、彼女が生きて来た道が綿々と綴られていました。
彼女が右手を失ったのは三歳の時でした。
家族が目を離した隙に、囲炉裏に落ちて手が焼けてしまったのです。
切断手術をする度に腕が短くなり、最後には肘と肩の中間くらいの位置から義手を取り付けなくてはならなくなりました。
彼女は小学校入学までの三年間、事故や病気で体が不自由になった子供達の施設に預けられることになりました。
「友達と仲良くするんだよ」
と言い残して去った両親の後ろ姿をニコニコと笑顔で見送った後、施設の中で三日間も泣き通したと言います。
しかしそれ以降は一度も泣くことなく、仲間と共に三年間を過ごしたのでした。
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そしていよいよ施設を出る時、庭の隅にある大きな銀杏の木にぽっかり空いた洞の中で、園長先生が彼女を膝に乗せ、このような話をされました。
「今日子ちゃんがここに来てからもう三年になるね。
明日家に帰るけれども、帰って少しすると今度は小学校に入学する。
でも、今日子ちゃんは三年もここに通っていたから、知らないお友達ばかりだと思うの。
そうするとね、同じ年の子供達が周りに集まって来て、
『今日子ちゃんの手は一つしかないの?』
『何? その手』
と不思議がるかもしれない。
だけど、その時に怒ったり泣いたり隠れたりしては駄目。
その時は辛いだろうけど、笑顔でお手々を見せてあげてちょうだい。そして、
『小さい時に火傷してしまったの。
お父ちゃんは私を抱っこしてねんねする時、この短い手を丸ちゃん可愛い、丸ちゃん可愛いと撫でてくれるの』
と話しなさい。いい?」
彼女が「はい」と元気な明るい返事をすると、園長先生は彼女をぎゅっと抱き締め、声をころして泣きました。
彼女も園長先生の大きな懐に飛び込み、三年ぶりに声の限り泣いたそうです。
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故郷に帰り、小学校に入った彼女を待っていたのは案の定、
「その手、気持ち悪い」
という子供達の反応でした。
しかし彼女は園長先生との約束通り、腕を見せては
「これは丸ちゃんという名前なの」
と明るく笑いました。
すると皆俯き、それから誰も虐める子は居なくなったと言います。
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私が教室で愛語について話した時、彼女は
「酒井先生は愛語という言葉があると黒板に書いて教えてくれたけど、園長先生が私にしてくれたお話が、正に愛語だったのだと思います」
と感想を語ってくれました。
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彼女はその後、大学を出て
「辛い思いをしている子供達のために一生を捧げたい」
と、千葉県にある肢体不自由児の施設に就職。
今でも時々、写真や手紙などを送ってくれています。
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酒井大岳(曹洞宗長徳寺住職)『致知』2013年10月号「一言よく人を生かす」より