サイトアイコン 泣ける話まとめ|心温まる話・ちょっと切ない話・悲しい話・家族・夫婦・ペット・恋愛・友情など感動する話を厳選【ラクリマ】

娘の声が届いた日

父の日

私はかつて、妻と一人娘の三人で暮らしていた。

だが、娘が1歳と2ヶ月になった頃、離婚することになった。

原因は、酒に溺れた私だった。

酒癖が悪く、時には暴力的にもなった。

娘にまで手をかけてしまうのではないかと恐れた妻が、我が子を守るために選んだ道だった。

私は、自分がしてしまったことを、心の底から悔やんでいる。

そしてそれ以来、どんな付き合いの場でも酒は一滴も飲まないようにしている。

だからといって、「よりを戻してくれ」とは言うつもりもないし、言える立場でもないことも解っている。

ただ、元妻と娘には心から幸せになってほしい。

その気持ちにだけは、嘘はなかった。

離婚にあたって、妻と二つの約束を交わした。

ひとつは、年に一度、娘の誕生日だけは会いに来てもよいということ。

もうひとつは、そのときに自分が“父親”であることは決して明かさないこと。

それは私にとって、ひどく苦しい約束だった。

だが、娘にとってそれが最良だと理解していた。

会えるだけでも、感謝しなければならなかった。

娘の誕生日が近づくと、私はスーツに着替えてプレゼントを持ち、母子の暮らす家を訪ねた。

元妻は、私のことを「遠い親戚のおじさん」と紹介してくれた。

娘は、最初こそ警戒していたが、次第に打ち解けてくれた。

冗談まじりに「見知らぬおじさん」と呼ばれることもあったが、それすらも愛おしかった。

三人で近所の公園を散歩することもあった。

通りすがりの人には、仲睦まじい家族に見えただろう。

そのひとときが、私には何にも代えがたい幸せな時間だった。

それが、ずっと続いてほしかった。

年に一度のこの日のために、私は酒をやめ続けることができた。

だが、それもいつか終わるということを、私はどこかで予感していた。

娘が小学校に上がる年のことだった。

いつものようにスーツを着て、プレゼントを持って玄関に立つと、元妻の表情が曇っていた。

「ごめんなさい。もう、今年で最後にしてほしいの」

そう告げられた。

娘が物心ついて、色んなことを理解しはじめている。
それが、彼女の理由だった。

私には、その言葉の意味が痛いほど分かった。

娘は、これから誕生日を祝ってくれる友達もできる。

元妻にも、きっと新たな生活があるのだろう。

そんななかに、「見知らぬおじさん」が現れ続けるわけにはいかない。

ただ、私はひとりだけ――過去に取り残されていた。

年に一度のこの時間を繰り返すことで、いつか娘が「お父さん」と呼んでくれる日が来るかもしれないと、本気で思っていた自分が、今は情けなかった。

一度壊れたものは、どんなに願っても、もう元には戻らない。

「見知らぬおじさんだ!」

玄関に顔を出した娘が、満面の笑みで言った。

「きょうは遊びにいかないの?」

「……今日はね、おじさん行かなきゃいけないんだ」

「なんだ、ざんねん!」

私は、限界まで目を瞑った。

そして、手を振る娘の姿を、まぶたの裏に焼き付けた。

「ごめんね。元気でね」

「バイバイ!」

それが、娘と交わした最後の言葉だった。

それからも、どうしても娘の誕生日だけは忘れることができなかった。

私は、差出人のない小包にささやかなプレゼントを詰めて、毎年送り続けた。

筆箱や文庫本、手袋やポーチなど、娘の年齢を想像しながら選んだ。

受け取ってもらえたかは分からない。

元妻が渡してくれていたのかも分からない。

それでも、その日が近づくたびに胸が高鳴った。

それが、私にとって唯一の“楽しみ”だった。

ただ、そろそろ終わりにしようと決めていた。

娘が中学生になる年、最後に英語の辞書を贈った。

私のことなど知らないでいい。

これ以上、娘の人生に影を落とすようなことはしたくなかった。

これで、完全に“区切り”をつけるはずだった。

ところが――
最後の荷物を送ってから一ヶ月ほどが過ぎたある日。

私のアパートに、小さな小包が届いた。

差出人の欄は空白だった。

不思議に思いながら箱を開けると、中から出てきたのは、水色のネクタイピンと一枚のメッセージカードだった。

封を開け、カードを読む。

震えるような、けれど一生懸命な文字でこう綴られていた。

『いつも、素敵なプレゼントをありがとう。

私もお返しをしようと思ったのだけど、誕生日がわからなかったので(汗)

今日、送ることにしました。

気に入るかなあ…。

見知らぬ子供より』

その場で、時間が止まった。

頭の中がぐるぐると混乱し、心は言葉にならない感情で満たされた。

やがて、止めようもなく涙があふれてきた。

最後には、声を上げて泣いた。

ふと、壁にかけたカレンダーに目をやった。

その日は――6月の第3日曜日だった。

『父の日』だった。

モバイルバージョンを終了