俺と嫁は、高校の時からの付き合いだった。
付き合った切っ掛けは、同じ委員会に所属したこと。
高校の文化祭で、俺と嫁は同じ仕事をした。
準備から事後まで、約一ヶ月間同じ作業をして、いつの間にか俺が嫁に惚れ、告白して付き合った。
付き合ってから、俺と嫁はずっと一緒だった。
昼休みも、放課後も、休みの日もずっと一緒だった。
それが自然だったし、何よりも幸せだった。
もちろん嫁も毎日笑っていたし、幸せだと言っていた。
※
高校を卒業して、俺と嫁は就職した。
就職して一年後、仕事にも慣れた頃、俺は嫁にプロポーズした。
嫁は泣きながら喜び、頷いてくれた。
そして両親への挨拶をした。
と言っても、既に俺達は家族ぐるみの付き合いをしていた。
何しろ高校の時から付き合っていたし、俺の両親は嫁に、嫁の両親は俺に、本当に良くしてくれた。
だから結婚することをそれぞれの両親に言った時も、
「ようやくか!」
と言った感じで祝福してくれた。
※
そして俺達は、夫婦になった。
当時、それぞれ19歳だった。
結婚してからは本当に幸せだった。
色々な所へ行ったし、色々な思い出を作った。
家でも一緒に料理をしたり、買い物に行ったりした。
子供は中々出来なかったけど、一年後には長男を授かった。
二人で一生懸命名前を考えて、俺は嫁と息子を一生かけて幸せにしようと心に決めた。
※
嫁は息子を授かって退職した。
家で俺が帰って来るのを待ちたいと言っていた。
家のことは自分が守るからと、仕事に向かう俺を励ましてくれた。
俺はその時、嫁と結婚したことを心から幸運に思った。
こんなにも自分のことを考えてくれていることに感謝した。
※
それから、俺は仕事に没頭した。
自分で言うのも何だが、俺は会社ではかなり仕事が出来る方だったと自負している。
若かったけど、会社の企画を任されたりもした。
会社でも信用は高かったし、色々な人が俺をサポートしてくれた。
だから、俺もそれに応えようと必死に頑張った。
おかげで仕事は凄まじく忙しかった。
出張、残業は当たり前。
休みでも急な呼び出しがあればすぐに出て行った。
もちろんその分、給料はかなり良かった。
でも、俺は家に帰って寝て、朝また仕事に向かうだけの毎日だった。
そしていつしか、俺と嫁は会話をしなくなった。
家に居るのは本当に僅かだったし、俺は家ではクタクタになって眠ることが多かった。
嫁はそんな俺を色々サポートしてくれた。
けど、やはり話す時間は殆ど無く、家はいつも暗かった。
※
それから数年後、ある休みの日、俺は荷物の整理をしていて、結婚式の写真を久しぶりに見た。
思えばこの時、最後にマイクで大声で
「一生幸せにします!!」
なんて恥ずかしいことを叫んだな…と思い出し笑いをした。
その時、ふと我に返って家の中を見てみた。
綺麗に片付いている部屋。
だけど、そこは家庭ではなかった。
友達と遊びに行き、俺が休みなのに顔も合わせない息子。
まるで俺から逃げるかのように家事をし、終われば何も言わずに買い物に出掛ける嫁。
もう、色々グチャグチャだった。
考えてみればその時、嫁とは夜の営みも一切無かった。
これは本当に自分が思い描いた家庭なのか。
これで一生幸せにしていると言うのか。
そんな想いが込み上げて来た。
※
次の仕事の日、俺は会社の上司に転属願を出した。
そこはそれまでの部署から比べると、給料は圧倒的に低い所だった。
しかしその分、残業や出張が少ない部署だった。
上司からは止められたが、俺はそれを押し切って、その部署に異動させてもらった。
※
そして異動が決まった日、いつもより早く家に帰った。
息子は俺の実家に泊まりに行かせていた。
俺が早く帰って来たことに、嫁は驚いていた。
そんな嫁にシャンパンを買い、久々に二人きりでゆっくりとした食事をしようと思っていた。
しかし、いざ嫁と食事をしてみたものの、既に数年間ろくに会話もしていない関係だった。
いきなりスラスラと話すことは出来なかった。
重い沈黙の中、俺と嫁は黙々と目の前のご飯を食べた。
その重苦しい空気が、その時の俺と嫁の関係を物語っているような気がした。
でも、それじゃダメだと自分を奮い立たせた。
そして、嫁に部署が異動したことを告げた。
最初は嫁もふーん程度の反応で、一切興味を示していなかった。
それどころか、俺と目を合わせようとしていなかった。
その時、多分俺はただの同居人として捉えられていたのかもしれない。
それでも俺は話した。
そして、これまでの自分を謝罪した。
・これまで、自分は家族を蔑ろにし過ぎた。
・家族のためと思い働いていたけど、それは自分の自己満足だった。
・お前と息子には、本当に寂しい思いをさせてしまった。
・これからは家に居る時間を増やして、これまで過ごすはずだった家族としての時間を増やして行く。
・だからもう一度、俺を家族として、夫として認めて欲しい。
そう言った後、嫁はポカンとしていた。
かと思えば、その場で箸を持ったまま泣き出した。
※
それから俺は出来るだけ早く会社を退社し、家に直行するようになった。
最初の方は、俺が早く帰ると家の生活サイクルが狂うようで、何だか嫁の方が色々と慌てていた。
もちろん息子は動揺していた。
それでも、暫くすると俺が家に居る生活にも慣れ始めた。
そして、俺の家には笑い声が増えて行った。
顔を合わせなかった息子は、今日学校で何があったか俺に楽しそうに話し、嫁はテレビでこんな話を聞いたと自慢げに語って来た。
俺はそれが嬉しくて、笑顔で話を聞いた。
嫁と寝室で寝る時、嫁に言った。
「これからは、嫁を本当の意味で幸せにする。愛してるよ」
嫁は泣きながら、私も愛してると返した。
そして、俺と嫁は息子に気付かれないように注意しながら、毎晩のように愛し合った。
こうして俺の家族は、何とか持ち直した。
※
そんな時、嫁が買い物に行った後、家で荷物整理をしていた時、とあるスケジュール帳を見つけた。
見たことがなかったものだったから、パラパラと中を捲ってみた。
嫁の字で色々書かれていて、それは嫁のスケジュール帳だと分かった。
そしてその中に、とある単語が日付の横に書かれていた。
ハートで囲まれた、Kという文字。
それが、週に数回程書かれていた。
それはちょうど、俺が仕事に没頭していた時期。
俺は、瞬時に理解した。
嫁が、不倫をしていたことを。
俺は怒り狂った。
嫁が帰って来てから、問い詰めようと思った。
だけど、考えてみれば俺が嫁を寂しくさせていたことは事実だったし、当時は嫁との夜の生活は全く無かった。
寂しさのあまり他の男に走るのも、仕方がないのかもしれない。
そんな風に思えて来た。
そしてスケジュール帳は何冊もあったが、ある日を境にKという文字は書かれなくなっていた。
それは、ちょうど俺が異動した時期。
その月のスケジュール帳には、途中までKという文字が書かれていたが、途中からはKに×印が付けられ、それ以降Kという文字は書かれていなかった。
だから俺は、それを密かに元の場所に戻した。
そして、見なかったことにした。
もちろん完全に忘れることは出来なかった。
※
それから、俺は暫くEDとなった。
その時、嫁とは毎晩関係があったから、嫁は凄く心配していた。
俺は仕事で疲れてるだけだからと説明した。
嫁は、俺の体を色々と気遣い始めた。
過去の不倫を知られているとは、夢にも思わなかったようだ。
俺は必死に忘れようとした。
だけど、どうしても嫁の体を見ると思い出してしまった。
その度に心がざわつき、途中吐いてしまうこともあった。
地獄のような日々だった。
それでも、暫くしたら徐々に落ち着き、EDも直った。
そして俺は、それを墓場まで持って行こうと思った。
※
それから月日が流れ、息子が高校を卒業した後、公務員試験に合格した。
それは他県の公務員であり、それを期に一人暮らしをすることになった。
引っ越しも終わり、最後に豪勢な食事をして息子を見送った。
その日の夜、家は久しぶりに俺と嫁だけになった。
「何だか寂しくなったね」
と嫁は言った。
「そうだね」
と俺は返した。
そして、嫁に言った。
息子も一人立ちをした。
これまでの人生は、君のおかげで素晴らしいものだった。
一度忘れていた家族の大切さも、君のおかげで思い出すことができた。
自分にとって、君はかけがえのない大切な人だ。
本当に愛しているよ。
そしたら、嫁は泣き始めた。
俺は嫁の体をさすり、なだめようとした。
でも嫁は、その場で急に土下座するように座ってしまった。
そして、
「私に、あなたからそんなことを言われる資格はない」
と言い出した。
俺はその時、嫌な予感がした。
嫁に止めるように言おうとしたが、その前に嫁が言った。
「私は、過去にあなたを裏切り不倫をしました」
聞きたくない言葉だった。
思い出したくもないことだった。
でも、嫁は自ら話し出した。
・不倫は、前の職場の上司だったこと。
・向こうは遊びのようだったが、自分は本気で相手に惚れ込んでいたこと。
・あなたと離婚して、相手と添い遂げようとまで思っていたこと。
・しかし、あなたが異動を期に変わり、忘れていたあなたへの想いが溢れ、その人物と別れたこと。
・本当は言うつもりだったが、あまりに幸せな日々だったため、それが失われるのが怖くて言えなかったこと。
・言えないことで、ずっと罪悪感を抱えていたこと。
嫁は泣きながら言っていた。
そして、ずっと言えなかったことを謝罪した。
でも俺は知っていた。
だから泣きながら謝る嫁に、
「知ってたよ」
と言った。
嫁は驚いた顔になったが、俺は
「全部知ってた」
とだけ言った。
そしたら、嫁は更に泣き始めた。
そして暫く、家の中は嫁の泣き声だけになった。
※
それから俺と嫁は話し合った。
これからどうして行くのか。
これからどうすべきなのか。
話し合った結果、俺と嫁は離婚することになった。
もちろん俺の本意ではない。
ただ、ここまで話した嫁の覚悟を考えれば、一度きちんとしたけじめをつける必要があると思った。
両親には相談しなかった。
すれば反対されただろうから、事後報告することにした。
※
次の日の夜、用意した離婚届をテーブルの上に出した。
まずは俺が名前を書くことにした。
そしたら、これまでの嫁との生活が走馬灯のように頭を過った。
高校の時、照れながら告白したこと。
卒業式の日に、同級生にからかわれながら写真を撮ったこと。
就職祝いを一緒にしたこと。
プロポーズの時に噛んでしまったこと。
披露宴の翌日に行った新婚旅行で、二日酔いでダウンしていたこと。
妊娠したことを知り、家で飛び跳ねて喜んだこと。
名前を考える時、二人で姓名判断の本を見ながら決めたこと。
嫁が出産をした時に、我が子を抱きかかえた時のこと。
色々な思い出が頭をめぐり、目からは涙が溢れて来た。
俺と嫁は、泣きながら離婚届に名前を書いた。
二人の字は奮えていた。
※
そして翌日、一緒に市役所に提出した。
こうして俺と嫁の23年間は終わった。
それぞれの実家に話した時はかなり揉めたが、最後には理解してくれた。
息子にも電話で言った。
息子は、
「子供じゃないんだから、二人で決めたことに口出しするつもりはないよ」
と言っていた。
※
そして今は、俺は一人になった家で生活していて…いや、嫁は、じゃないな。
元嫁は、アパートを借りて暮らしている。
しかし、一度離婚して、意外にも色々とスッキリした面があった。
俺も心に抱えていたものが、こうして筋を通すことで、消えてしまったのかもしれない。
離婚したと言っても、元嫁とは連絡を取っている。
と言うより、偶に元嫁が家に来て、ご飯を作ったり掃除したりして帰っている。
何だか昔に戻ったような新鮮な気分だ。
今度、元嫁と出掛ける予定だ。
再婚するかは分からない。
でも俺と嫁の23年間は一度リセットされたから、もしかしたら今が新しい一年目なのかもしれない。